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「32歳差のタイトル戦」投了した藤井聡太は項垂れ、羽生善治は終わってなお厳しく盤面を睨んでいた

『いまだ成らず 羽生善治の譜』より

2024/05/27

source : ノンフィクション出版

genre : エンタメ, 読書

note

 時代を代表する棋士同士のタイトル戦。あるいはもう二度と見られないかもしれない……。そんな予感がこの両者の対局の価値を高めていた。

 第4局2日目の焦点は藤井の封じ手であった。1日目の夕刻、羽生の攻めを受ける場面で藤井は2時間24分もの長考に入り、その末に手を封じていた。考えられる選択肢は二つ。相手の攻め駒を銀で取るか、玉で取るか。大方の予想は前者であった。

 午前8時59分、封筒にハサミが入れられ、封じ手が明かされる。出てきたのは周囲が予想していたのとは逆の手であった。検討陣がざわめく。

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 ただ、羽生は予期していたかのように5分でその手に応じた。降り頻(しき)る雪を窓の向こうに見ながら、両者は深く読み合いに入っていった――。

正確無比の藤井の読みを狂わせたものは…

 終局の時刻は予想されていたよりも早かった。まだ真冬の日が没する前、羽生が何かを確認するかのように深く一度頷いて、飛車を成った。その決定的な一手から数分後、藤井は茶を口に含むと、心の整理をつけるかのように天井を見つめた。そして、ひとつ息をついてから頭を下げた。

「負けました」

 午後4時3分、20歳の五冠王が投了した。

 森内俊之は研ぎ澄まされた対局室の空気の中にいた。この第4局の立会人として時代の覇者同士がぶつかり合う様を目撃していた。立会人席からは窓の向こうの銀世界を背景に終局直後の両者が見えていた。藤井は項垂れ、羽生は終わってなお厳しく盤面を睨んでいた。

「封じ手で長考したところで間違えました……。読みの精度が足りませんでした」