「英語人格」と「日本語人格」
みずきは、自身が現在の環境で「変」と思われてしまう原因を、以下のように考えている。
筆者:「変」って言われちゃう理由に心当たりはある?
みずき:日本で英語を勉強してきた人って、英語を英語で理解してるっていうよりは、英語をまず日本語で理解して、それをまた英語に直してると思うんだよね。でも帰国子女は英語を英語で理解してると思ってて。だから、本質は一緒でも、「英語人格」と「日本語人格」がいる。純ジャパの人は、日本語で1回考えてるから、人格が一緒でしょ? 困ったことに、(自分は)どちらかの人格のときにぐちゃってしまうんだよね。日本人としての人格のときに、突然、英語人格が出ちゃったり……だから変な人と思われるんじゃないかな。
英語と日本語、両方の環境で育ったみずきは、英語を話すときの人格と、日本語を話すときの人格が異なるという。言語とその言語で構成された文化とは、密接に関わっていることがうかがえる。そしてやはり、みずきの言う「英語人格」時の態度では、周囲から怪訝な顔をされ、それが環境に馴染めない不安につながっているようだ。
みずきの現状から考えると、日本はまだまだ多様性を受け入れる社会とはいえないのではないだろうか。見た目が日本人の帰国子女でも異質と扱われるのだから、外国人材ともなれば、さらにギャップと不安を感じることだろう。
内向きな日本に、明るい未来は訪れるのか
みずきは、自身の将来について、海外で日本語を教えてみたい、と語る。
日本語と英語、双方の苦悩を知り、多様性を実感したみずきは、自分ならば相手の気持ちを想いながら言語を教えられるのではないかと考えている。
ここで注目すべきことは「海外で」「日本語の」先生だということだ。日本で英語の先生、ではない。みずきが日本語を教えたいと考える理由は、海外経験があろうとも、根本的に日本が好きで、日本人としてのアイデンティティがあるからだ。しかし、日本での働く環境に違和感を覚えるみずきの視線は、国外に向いている。
みずき:皮肉だよね。さんざん日本人としてのアイデンティティがあるって言っておきながら、最終的には日本に見切りをつけて海外に行こうとするなんて。
みずき:私だけじゃなくて、海外に目が向いてる人は、海外に行ってしまうと思うんだよね。
確かに、みずき以外の私の友人で海外経験のある人は、一度は日本で就職したものの、海外に目を向けて別の道を歩む人が多い気がする。みずきは、自身もその一人であり、そうなってしまうのは仕方ないと思いつつも、この状況を憂えている。私もそう思う。
郷に入っては郷に従え、慣れろ、という声も挙がるだろう。しかし、その同化には何の意味があるのだろうか。内向きな日本に、明るい未来は訪れるのだろうか。
教育を受けた、日本人としてのアイデンティティのある日本人が、日本を見限る、という、人材の流出の問題をなんとかしなければならないと私は思う。そしてその原因でもある社会構造にも疑問を投げかけなければならない。