「『熱闘甲子園』の見過ぎやろ。ちゃうちゃう。超自分のため」
息子の秋山航太郎は、母の菜々子に対して、たびたびそんな言葉を吐く。
“いわゆる”ではなく、正味の甲子園の物語だ。補足するなら、菜々子が「憎しみを抱いたことすらある2年4ヶ月」と表現する母たちの甲子園の物語でもある。
神奈川で生まれ育ち、将来を嘱望される投手だった航太郎は、ひょんなきっかけで大阪の新鋭高に入学する。シングルマザーの菜々子はそれを機に、自分も大阪への移住を決断した。
ところが苦難の連続だった。勧誘の際、あんなに愛想のよかった監督は強圧的な指導者に豹変していた。父兄間の嫉妬や羨望に辟易する日々。部になかなか馴染めない航太郎は別人のようにげっそりしてしまう。
もっとも衝撃だったのは会計係の菜々子に与えられた指令だった。監督への度を超えた忖度。息子の立場を考えいったんは従うつもりになったが、土壇場で監督に不満をぶつけ、先輩父兄からこう罵られる。
「あんたの正義感なんかどうでもええ。何が正しくて、正しくないかなんて関係ない。高校野球における監督は絶対の存在や。子どもたちの生き死に握っとんのはあの人なんや!」
トップレベルの高校野球は、きれいごとだけでは済まない。ときにそれを受け入れざるをえない親たち。著者は、それを力ずくで肯定してもいる。
早見は神奈川の名門高校の野球部出身だ。ただし、補欠だった。ある意味、当時の憎しみをぶつけたのが、デビュー作『ひゃくはち』である。以降、高校野球モノは封印する。しかし2021年、新型コロナの流行下で甲子園を失った高校生たちを描いた『あの夏の正解』というノンフィクションをものした。そして今回、いよいよデビュー作以来、16年振りとなる高校野球小説を書き上げた。
うならされるのは、随所で描かれる菜々子の一人息子への揺れる思いだ。同じ補欠部員が代打でヒットを打ったシーンで目元を拭う航太郎。その姿を見逃さなかった菜々子はこう思う。
〈親友の成功を祝ってのことか、自分がその場に立っていないことに対する悔しさからか。きっと前者なのだろうと思いつつ、不思議と後者であってほしいという気持ちが胸に芽生えた〉
早見は高校野球的なものを嫌悪している。が、し切ることはできない。その期待の端切れのようなものが、この小説を書かせている。
この本は不思議な仕掛けがある。351ページという分量にも関わらず、章分けがまったくなされていない。一息もつかせたくない、そんなねらいを感じる。
作者の意図に沿うように一気に読んだ。確かに母と子の2年4ヶ月は一瞬だった。早見が描きたかったもの。それは高校野球における希望でも絶望でもなかった。一瞬がゆえに生じる火傷しそうな擦過熱だった。
はやみかずまさ/1977年神奈川県生まれ。2008年『ひゃくはち』でデビュー。15年『イノセント・デイズ』で日本推理作家協会賞受賞。20年『ザ・ロイヤルファミリー』で山本周五郎賞とJRA賞馬事文化賞を受賞。近著に『八月の母』など。
なかむらけい/1973年千葉県生まれ。『勝ち過ぎた監督 駒大苫小牧 幻の三連覇』で第39回講談社ノンフィクション賞を受賞。