「ソースはどのように使うのでしょうか」というフォロワーの質問に2500字の長文回答を送りつけ、「ソースと共にあらんことを!」とオチを付けることも忘れない、人気店エリックサウスの料理長であり「変態料理人」こと稲田俊輔さん。

  専門の南インド料理はもちろん、和洋中エスニックと料理蘊蓄はとどまるところを知りません。そんな食べることへの並々ならぬ愛情を育てたのは、やはり家庭でした。1970年代の鹿児島らしからぬ“ハイカラ”な家庭と人格形成について話を聞きました。

稲田俊輔さん ©三宅史郎/文藝春秋

「どうも自分の家はちょっと食べ物の傾向が周りの家と違うぞ」

――稲田さんが今のように食について膨大な知識を蓄えるに至ったことには、家庭の影響もあったのでしょうか。

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稲田俊輔(以下、稲田) 父は銀行員、母は専業主婦で、2人とも鹿児島生まれ鹿児島育ちという家でした。ただ「どうも自分の家はちょっと食べ物の傾向が周りの家と違うぞ」というのは小学生くらいの頃には気づいていた気がします。

――「周りの家と違った」のはどんなところですか?

稲田 母親は鶏ガラでコンソメを作ったり、クリームソースの豚肉料理みたいなものを日常的に作る人で、当時の特に九州ではかなり“ハイカラ”な家だったことは間違いないと思います。パスタも当時ブームだったナポリタンは頑として作らず、ソース焼きそばも作ってもらった記憶がありません。

  僕も小さい頃は疑問も持たずにいたんですが、小学生くらいになると友達の家で晩ごはん食べたりすることがありますよね。そうやって友達の家と比べるなかで、自分の家がちょっと特殊なことは感じ取ってましたね。

©三宅史郎/文藝春秋

――鹿児島生まれ鹿児島育ちのお母さまは、その料理をどこで覚えたのでしょう。

稲田 だいたいは雑誌ですよね。「暮しの手帖」とか、創刊間もない頃の「クロワッサン」を愛読していて、その洋風な世界観に憧れていたんでしょうね。だから僕は母親のことを“元祖オリーブ少女”だと思ってます(笑)。この話は一歩間違うと「育ちがいい俺」みたいに誤解されかねないので気をつけているんですが、実際のところ自分の家なのでどこが普通でどこが珍しいかもいまだにちゃんとはわかってないんですよね。

――稲田さん自身は、その家庭環境は気に入っていましたか?

稲田 割と自然に受け入れていたような気がします。周りと違って恥ずかしい、とか思うわけでもなく、若者らしく普通にオシャレなものが好きというか。僕自身もかなり小さい頃からキッチンで親が料理しているのを横から見てるような子でしたし。