「ずるいなあ、その話をここで持ち出すんですか」――1998年に引退したアントニオ猪木は、なぜ2年後にエキシビションでのレスラー復帰を果たしたのか? その経緯を、ノンフィクション作家・細田昌志氏の新刊『力道山未亡人』(小学館)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む

1998年に現役引退したアントニオ猪木をリングに再登場させた、力道山未亡人の言葉とは? ©getty

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ずるいなあ

「第2回メモリアル力道山」の開催が正式に決まった。会場は前回と同じく横浜アリーナ。一万八千人の大会場である。

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 敬子は、どうしても満員にしたかった。「力道山の名前を冠する大会が、空席が目立っては絶対にいけない」と思った。

 問題は誰にオファーするかである。もちろん、前回と同様、男女すべてのプロレス団体に声をかけることは決まっていた。それでも、ビッグカードが組まれる可能性は低い。それぞれの団体にとって、自社の大会に温存しておきたいはずだからだ。とすると、大きな目玉が必要となる。

 敬子の肚は決まっていた。アントニオ猪木である。

 関係者の多くが難色を示した。ああまで、盛大に現役を退いた猪木を引っ張り出すのは、さすがに難しいだろうということだ。

「でも、本人に当たってみましょうよ」と敬子は押し切った。勝算があったのだ。

 都内のホテルで猪木に出場を打診することになった。出席するのは、田中敬子、力道山OB会事務局長の岩澤敏雄、若いスタッフの三名。猪木側は、アントニオ猪木と猪木事務所取締役の伊藤章生の二名である。

 リキ観光開発の社員だった岩澤からすれば、若き日の猪木を知っている。とはいえ、今は立場が違うことも自覚している。「力道山追善大試合」のときの山本正男のように、大事なビッグマッチの直前に控室に現れて威圧的に振る舞っては、まとまるものもまとまらない。岩澤は静かに語りかけるように、猪木にこう言った。

「猪木さん、このたび『メモリアル力道山』の第二回目を開催することになりました。会場は同じく横浜アリーナを押さえています」