「実は、ジャニーズに入る前『プロレスラーになろう』って真剣に考えていたんですよ」

 2000年に行われた「第2回メモリアル力道山」。そこで引退したアントニオ猪木と当時人気絶頂だったアイドルの滝沢秀明の驚くべき試合が実現した理由とは? ノンフィクション作家・細田昌志氏の新刊『力道山未亡人』(小学館)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/前編を読む) 

なぜアントニオ猪木と滝沢秀明のプロレスが実現したのか? ©getty

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ワシントンハイツ

 戦後間もない時期に、代々木公園の一角に、ワシントンハイツなる集合住宅があった。

 日本を統治したGHQが、米軍人及び軍属の住居を確保するために、当時の渋谷区長・磯村英一に命じて作らせたのだ。ここに住んでいた一人に、米軍属として朝鮮戦争にも従軍した日系二世の喜多川擴もいた。ジャニーズ事務所創業者のジャニー喜多川である。

 ジャニー喜多川が、代々木公園で遊んでいる少年たちに片っ端から声をかけ、少年野球チームを結成した。それが「ジャニーズ」の原型である。彼らの評判は瞬く間に広がり、試合ともなると、近隣の住民が応援に駆けつけるようになった。

 その中に力道山の姿もあった。喜多川家の後見人である“日本の宝石王”ことフィクサーの大谷貴義と懇意にしていたからで、それどころか、大谷の長女で一九五七年の「ミス・ユニバース」日本代表にも選ばれた、モデルの大谷享子と交際していた時期もある。

 それもあって、メリーとジャニーの姉弟とは古くからの顔見知りで、交流は力道山が鬼籍に入るまで続いた。姉弟にとって社会的成功を収めた力道山は、憧れの存在だったはずだ。

「藤原紀香となら戦う」という猪木の発言が呼び水となって、意外な相手が浮上するのである。

 それは、雑誌を読んでいた若いスタッフの、何気ない一言がきっかけだった。

「タッキーってプロレスファンなのかあ」