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 岩澤敏雄が「タッキーって誰?」と尋ねると「ジャニーズの滝沢秀明です」と若者は答えた。

 岩澤は雑誌に載る滝沢秀明を見て「今度の大会に来てもらえないかな」と呟いた。来場しただけでトピックになるからだ。

 そこから、話はとんとん拍子に進み「オープニングセレモニーで君が代を歌う」というところまで話は進んだ。容易に事が運んだのには理由があった。以前、あるパーティで田中敬子は、ジャニーズ事務所副社長のメリー喜多川を紹介されたことがあったのだ。

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芸能界きっての女帝・メリー喜多川氏 ©文藝春秋

「力道山の家内でした、田中敬子と申します」

 そう言うと、芸能界きっての女帝は低姿勢にこう言った。

「藤島泰子です。リキさんには生前、ひとかたならぬ、お世話をいただいておりました」

「ああ、大谷貴義先生の関係で……」と敬子が水を向けると、メリー喜多川は首肯しながら「私が四谷で店をやっておりました頃にも、随分と足を運んでいただきまして」とも言った。

 ジャニーズ事務所を起業する前の昭和三十年代、メリー喜多川が四谷三丁目で「SPOT」というショットバーを経営していたのは有名な話だろう。浅利慶太、小澤征爾、永六輔、後に亭主となる作家の藤島泰輔ら文化人の常連客に混じって、往時の力道山も姿を見せていたことは、敬子も聞き知っていた。

「そういう昔からの関係性があったから話が進んだんです。でなければ、タッキーなんか無理だもん。『結局のところ、私は主人に守られてるんだなあ』って痛感しましたね」(田中敬子)

 二〇〇〇年二月二十一日、「第2回メモリアル力道山」の記者会見が開かれ、田中敬子、アントニオ猪木、滝沢秀明が出席した。

 マイクを握ると、滝沢はこう言った。

「実は、ジャニーズに入る前『プロレスラーになろう』って真剣に考えていたんですよ」

 記者の間からどよめきが起きた。当時のレギュラー番組『やったるJ』(テレビ朝日)で、メキシコロケの折、ルチャ・リブレ(プロレス)のジムに入門をするなどしていたが、本当にプロレスファンだと誰も信じていなかったからだ。

 そして、決定的な一言を述べた。

「僕も試合に出られないかなあ」

 現場の狼狽ぶりは、想像の通りである。

猪木対タッキー

 二〇〇〇年三月十一日、横浜アリーナは、早い時間から女性ファンで溢れ返った。

 一方、ジャニーズにもアイドルにも、まったく関心のなさそうなファンも大挙してやってきた。「スペシャルエキシビジョンマッチ三分一本勝負/アントニオ猪木対滝沢秀明」──こんな異次元の戦いは二度と見られるものではないからだ。