コロナ禍が始まってすぐの2020年春、往来の途絶えた路上でひとりの女性が命を絶った──実際に起きた事件の記事をもとに脚本を紡ぎ、女性が必死に生きようとした姿を記憶にとどめるべく、入江悠監督はメガホンを取った。

『22年目の告白―私が殺人犯です―』(17年)や『AI崩壊』(20年)など幅広いエンタメ作品を手掛ける一方、『SRサイタマノラッパー』(09年)や『ビジランテ』(17年)、『ギャングース』(18年)などで、社会の底辺に生きる人々を独自の視点で描いてきた入江監督が、今作『あんのこと』に込めた思いを聞いた。

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強い衝撃を受けた2つの記事

──映画の制作のきっかけは國實瑞惠プロデューサーが目にした女性の死を報じる1本の記事。その事実に初めて触れたときの印象を聞かせてください。

入江悠監督(以下、入江) 記事を読んだのはコロナ禍が少しずつ収まりかけているときでしたが、2020年のあの頃、そんな事件があったのかと強い衝撃を受けました。

 自分はわりと強い人間だと思っていたんですけど、あの時期には閉塞的な空気に意外なほどダメージを負っていました。その苦しみを記録しておきたい気持ちがあって、それを主人公の杏に託したらどうかと考えました。

©2023『あんのこと』製作委員会

 もうひとつ、その女性が薬物依存を断ち切るための支援をしていた刑事が、一方で支援グループを私物化した末に性加害で捕まったという記事も読みました。

 人間の複雑さにも衝撃を受け、このふたつが組み合わさったらどんな映画になるだろうという興味が湧いて、脚本にしてみようと思ったんです。

「河合優実さん、どうですか」「それは素晴らしいですね」

──『SRサイタマノラッパー』などの作品でも、社会の片隅に生きる人々を描いてこられましたが、それらの作品はエンタメ寄りというか、物語が重視されていたように思います。ですが、今作では手つきがガラッと変わって、一貫して主人公の感情に寄り添っています。

入江 映画のモデルとなった女性は、自分で生活を立て直そうとした矢先、パンデミックに行く手を阻まれ、力が尽きた。この事実を前に、いままでの映画とは違い、ストーリーに登場人物を従属させるような作り方はできないと感じました。

入江悠監督 ©細田忠/文藝春秋

 それよりも、この女性の人生がどんなものだったのかを深く知りたい。で、実際に彼女を撮るわけではないんですけど、「杏」という女性を通してドキュメンタリー的に追いかけてみたいと思ったんです。