週刊文春連載時より話題を集めた「いまだ成らず 羽生善治の譜」が遂に書籍化された。50歳を越えてなお棋界で存在感を示し続ける羽生九段の強さの理由を「師匠はつらいよ」の杉本昌隆八段と著者の鈴木忠平氏が語り尽くす。
◆ ◆ ◆
藤井八冠に途中で教えることをやめたワケ
鈴木 取材をさせていただいた中では、師弟のあり方も印象的でした。豊島将之さんと指導棋士の土井春左右さんには師と弟子だけではない思いがあることを感じました。
杉本 棋士には、時代ごとの師が存在します。将棋を覚えた頃や奨励会時代、そして棋士になってからと。
鈴木 藤井さんとの関係は奨励会からですか?
杉本 そうです。どうしても師匠と呼ばれることは私が一番多いのですが、藤井八冠の最初の師匠は御祖母様ではないでしょうか。将棋そのものを教えた人ですから。そこから地元の将棋教室の文本力雄さんはアマチュア時代の師匠です。
鈴木 杉本さんは、極端に言うならば藤井さんに「将棋を教えなかった」ということを記事で読ませていただきました。
杉本 他の弟子と同じように、はじめは結構教えていた気がします。でも途中で「この子には必要ないのでは」と感じるようになったんです。私が教えることで余計な固定観念を植えつけかねない。自分で考えること、その環境を整えてあげれば勝手に伸びる、と。
得体の知れない羽生九段の強さ
鈴木 スポーツ紙の記者として落合博満監督時代のドラゴンズを取材した時のことを思い出しました。1年目のキャンプで監督はコーチたちに「選手が訊いてくるまで教えるな」と命じたんです。コーチ陣から「こんなに辛いことはない」という声が聞こえてきました。
杉本 指導するのが仕事ですからね。もしかしたらコーチを育てるという意味もあったかもしれませんね。
鈴木 杉本さんも、お気持ちの中では教えた方が楽だったのではないですか?
杉本 それはきっと自己満足であって、藤井八冠のためにはならないと思うんです。指導者が良かれと思って発した言葉が、結果的に成長の妨げになってしまうこともありますから。
鈴木 なぜでしょう。
杉本 おそらくですが、将棋の“正解”は人によって違うからかもしれません。
鈴木 将棋の深さですね。
杉本 弟子は師匠に反論できないし、対局すればまだまだ師匠が強い。するとどうしても言われたことを受け入れますよね。だからといって、良いことを教えたと師匠が思ってしまうのはよくないと思うのです。
鈴木 そういう事例を、杉本さんもたくさん見てこられたのですね。
杉本 他の一門のことは分かりませんが、自分の経験としてはそうです。一手ごとに丁寧に教わって暗記するように覚えても、結果に繋がらなければ将棋への熱を冷ましかねませんよね。だから、教えすぎることが若い人にどういう影響を与えるのか、指導する人間も考えることは大切だと、自分が師匠になってからは意識するようになりました。
鈴木 杉本さんの師匠は板谷進九段ですね。