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 過去は戻らない。千紗は現実からミワの元に逃げ込み、アトリエの居候となった。そこでミワの自分だけの、オリジナルのデザインを生み出す闘いを目の当たりにする。

「自分」を見つけるのは、たやすくない。特に芸術家は誰かに似た「自分」ではいけない。ミワにはアイヌという「自分」があるが、その「自分」の視点を持つには独りでいることが必要で、デザイナーになれなかった千紗だからこそ理解できるのだろう。

『谷から来た女』(桜木紫乃)文藝春秋

 高校生だったミワに出会った教育通信の記者・穣司には心情的に重なるところがあって、ちょっと目を伏せたくなった。

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「弟をいじめているのは、シサムとアイヌの両方です。同じ血が流れていたって仲良くなんかできないって、当たり前のことでしょ」

 ミワが訴える問題の深さを、穣司は知らないわけじゃない。だけど適切な、あるいは示すべき答えをだしたところで現実は変わらない。結局その場をあいまいに切り抜けている。

 穣司の態度は夫婦間でも同じようなもので、相手に共感しているふり、なのだ。

 問題を抱えているのは自分でなくとも、困って頼ってきた相手に何もしないのは、見殺しにしているのと同じではないか――穣司と変わらない弱い自分を自覚する。

 レストランシェフの倫彦は、新進気鋭のデザイナーであるミワに言われる。

「不意に、目の前にいる人の気持ちがこっちに落ちてくることがあるの」

 お互いに好意を持っても、恋愛は対等ではなく、相手への傾きが大きい方が苦しみも大きいのだと思う。倫彦のミワへの想いは、たぶんミワのそれよりも重い。倫彦のミワへの裏切りは矛盾している。それだけ自分の感情に溺れてしまうことを恐れたのだろう。

 テレビディレクターの久志木は、ミワのドキュメンタリーを撮るために「谷」を訪ねる。

 ミワにとって「谷」は故郷であり、出自でもある。

 その「谷」を離れ、そして再び「谷」で暮らしている。最初から計画したわけでないけど、その過去は必然にも見えてくる。

「自身の出自を客観的に眺めるには、離れたところに立つ必要があるんです」

「谷」は生まれたところで、帰るところ、そして死ぬところ。

 きっと死んだ後のミワの魂は「谷」にあり続けるだろう。ミワの祖父母、両親の魂とともに。

 本書はアイヌ出身の赤城ミワを描きながら、彼女に出会った人々の心をあらわにしていく。手を握られて初めて、自分の手のありかに気づくみたいに、誰もがミワに手を握られて、自分の本心を知るのだ。

 父が彫った背中の紋様に守られてきたミワはつぶやく。

「わたしを守るのは、わたし自身だったんです」

 自分が何者であるか? 何者になりたいのか? アイヌをテーマにしながら、どこから来たかもわからない自分の行方を考えてしまった。ミワの出した答えを知って満足してほしくない。その答えに行きつくまでを読んでほしい。

著者=桜木紫乃さん

さくらぎ・しの/1965年北海道生まれ。2002年「雪虫」でオール讀物新人賞を受賞。07年、同作を収録した『氷平線』で単行本デビュー。13年『ラブレス』で島清恋愛文学賞、同年『ホテルローヤル』で直木賞、20年『家族じまい』で中央公論文芸賞を受賞。近著に『ヒロイン』『彼女たち(写真=中川正子)』。

 

なかえ・ゆり/1973年生まれ。女優、文筆家。著書に『わたしの本棚』、『ホンのひととき 終わらない読書』など。読書家としても著名。最新刊は『万葉と沙羅』(文春文庫)。