医師としてだけでなく、タレント・コメンテーターとしても活躍している、おおたわ史絵さん。実は彼女は、母親に対して「いっそ死んでくれ」と願うほど、母娘関係に苦しんだ過去を持つ。
おおたわさんは、いったいどのような母親のもとで育ち、子ども時代からどんな苦悩を抱えていたのか。ここでは、おおたわさんの著書『母を捨てるということ』(朝日文庫)より一部を抜粋して紹介する。(全2回の1回目/2回目に続く)
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母を恐ろしいと感じた出来事
タバコの火を目の前でちらつかされても、額から血が流れても、それでもなおわたしは母に虐待されているという認識はなかった。
これは前にもお話ししたとおりで、今でもその気持ちは変わっていない。母はふつうのひとよりも少し気分が乱れやすく抑制が利かなかっただけだと、そう思っている。
たしかに母は怖かったが、それはけっして彼女を憎むとか嫌うという感情には繫(つな)がらなかった。それどころかあの頃のわたしはそんな母に振り向いてもらいたくて懸命に毎日を模索していた。哀しいことに、𠮟られるたびに愛されたい欲求が増していった。
ただ、そんななかでも本当に母を恐ろしいと感じた出来事がひとつあった。それは背筋の凍るような記憶である。
一切家事をしない母が作ったミルクセーキ
ある日、小学生だったわたしがおとなしく問題集を解いていると、それを見て機嫌をよくした母は珍しくニコニコと傍らにやってきた。
「ほら、ミルクセーキを作ったよ、飲みな」
手には乳白色のドリンクで満たされたグラスを持っている。バニラエッセンスのいい香りが漂って、食欲をくすぐった。
子供時代のわたしはすごく太っていて、食欲旺盛だった。健康的というよりも過食に近かったかもしれない。母が薬で眠っているときなどは、なにかを口に入れて寂しさを紛らわせていた面もあったと思う。
我が家にはわたしが物心つく頃からずっと家政婦さんがいて、食事の支度や掃除、買い物やアイロンがけは全部その女性の仕事だった。母は家事をすることは一切なかった。
わたしの学生時代の毎日のお弁当を作ってくれたのも、餃子の皮の包みかたを教えてくれたのもその女性だ。わたしは彼女を第二の母のように慕っていて、紛れもなく成育を支えてくれた恩人だった。その後何十年も彼女が天寿を全うするまで付き合いを続けた。