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ディメンタスの「乳首」に見る、男たちの不毛さ

 だがしかし、エコフェミニズムは決して、そのような男性の不毛さに対して女性の豊穣さを対置するようなことはしない。それをしてしまうのは「産む性」という、まさに家父長制によって女性に押しつけられてきた役割を自ら引き受けてしまうことになるだろうから。

 私が『フュリオサ』について非常に興味深いと感じたのはここから先である。一言で言えば、『フュリオサ』はかなり奇妙な形で、男たちを不毛な存在から反転させていこうとする細部を露呈しているのだ。

 例えば、ディメンタスの乳首である。ディメンタスはガスタウンを征服してその領主を人質にイモータン・ジョーと取引に向かう。そこで彼は、ガスタウンの領主の頭部を貫く槍と自分の乳首を繋いだ奇妙な仕掛けを用い、結局はその仕掛けが作動して領主は死亡、ディメンタスの乳首は吹っ飛んで彼は乳首から血を流す。

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クリス・へムズワースが演じるディメンタス 『マッドマックス:フュリオサ』日本版予告編より

 これは、『怒りのデス・ロード』でも印象を残した、乳首にピアスと鎖をつけた人食い男爵がそれを見て痛そうなのか快感なのか分からない表情を浮かべるということもあいまって、バカバカしくナンセンスで笑える場面である。

 だがこのバカバカしい場面が意外に重要かもしれない(往々にしてナンセンスな場面には映画の真理が隠されている)。

 私たちはここに、ディメンタスの女性化を見いだすことができる。男性の乳首はそれこそ不毛の象徴、無用の長物である。だがディメンタスは、その乳首から液体を流すという、女性にしかできないことをする。しかもそこから流れるのは血であり、それは生理を彷彿とさせるものでもある。

 このディメンタスの女性化は、彼が組織のリーダーとして凋落していき、破れかぶれになっていくことと響き合っているだろう。だが私はここに、彼の単なる敗北や、男性性の喪失という意味での女性化だけを見いだすのではなく、男たちの不毛さ、収奪に依存する資本主義と家父長制の不毛さから脱したいという欲望を看取する。実際ディメンタスはどこかで、収奪の無意味さを感じ取っており、自分の行為にうんざりし、最初から飽きているところがある。自らの不毛さに耐えられないのである。

 その意味では、エコフェミニズムを体現するフュリオサはディメンタスにとっての希望たり得たはずである。二人の間のライバル関係に見える関係は、そのような複雑さを持っていた。

 作品を最後までご覧になった方は、私が何を念頭に置きつつ語っているか、もう気づいておられるだろう。数ある可能性の中からフュリオサがディメンタスに最終的に与えた運命は、不毛な収奪型の資本主義からの離脱の可能性であり、彼が再生産に関われる可能性だった。

ディメンタスの運命は… 『マッドマックス:フュリオサ』日本版予告編より

 それは、フュリオサのエコフェミニズムからの、怒りに満ちた贈り物であった。この世界で男性が不毛なものではなくなる唯一の道を、彼女は贈ったのだ。それは、彼女が奪われたものを、さらなる収奪で奪い返すわけではない、最高の「復讐」の形だったのだ。

【参考文献】

D. H. メドウズ他『成長の限界──ローマ・クラブ「人類の危機」レポート』大来佐武郎監訳、ダイヤモンド社、1972年。

Mary Mellor, Feminism and Ecology. Polity Press, 1997.

ナンシー・フレイザー『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』江口泰子訳、ちくま新書、2023年。