エコフェミニズムもまた、1970年代に誕生した。エコフェミニズムという名称は、1974年にフランスの著述家フランソワーズ・ドボンヌによって作られたとされる(これと、以下の記述についてはメラーMellorを参照)。
メラーによれば、エコフェミニズムの基本的主張とは、環境と女性の両者が同じ支配体制のもとで搾取されているというものである。その支配体制とは資本主義であり、それと深く絡まり合った家父長制だ。逆に言えば、そういった体制からの女性の解放と自然環境の解放は同時に行われるべきものだということになる。
エコフェミニズムは90年代くらいまでは盛り上がりを見せていたが、その後は大きなうねりを起こしてはいない。しかし私は、2015年の『怒りのデス・ロード』にその復興の兆しを感じた。この作品は、「緑の地」という失われたエコロジカル・ユートピアを設定し、それを「鉄馬の女たち」というフェミニズム的連帯と結びつけ、「緑の地」の遺産である植物の種子を希望のバトンとして受け渡していく物語だったからだ。
『フュリオサ』で強調される「出口のなさ」
さて、『フュリオサ』は、上記のように、『怒りのデス・ロード』よりも舞台の視野を広げることで(それは、冒頭で宇宙からのような俯瞰でオーストラリア大陸を映し出し、舞台となっている砂漠へとズームインする演出によっても示される)、逆にこの映画が描く「いま・ここ」=ディストピアの出口のなさを強調する。
フュリオサが彼女を抑圧するディメンタスの軍団やシタデル(イモータン・ジョーの砦)から、すぐに逃走することはない。それは、単純にそれ以外の場所では生きていけないからである。
「緑の地」を失ったフュリオサは、シタデルであれ、ディメンタスのバイカー軍団の中であれ、砂漠以外のどこかで生きてゆかなければならない。そのような出口のなさは、登場人物の全員に共有されている。それはフュリオサやシタデルの「妻」たち、またジャックだけではなく、イモータン・ジョーやディメンタスといった支配者たちにとっても同じなのである。
そのように述べたからといって、私は彼らを免罪しようとしているわけではない。
この「出口のなさ」が表現する「いま・ここ」とは、現在の資本主義であり家父長制だ。政治哲学者のナンシー・フレイザーは『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』(原題の直訳は『共食い資本主義』)でそのような資本主義の「外部のなさ」を論じている。
現在の資本主義は、すでに通常の搾取(生産労働からの搾取)では成長できなくなっている。それは環境、人種(第三世界)、ケア労働(女性)といったものからの「収奪」によってしか命脈を保てなくなっている。
『マッドマックス』の世界は、仮想の近未来というよりは、まさにそのような資本主義の「いま・ここ」を描いている。もはや資源や人間を再生産することでの成長は不可能になっており、すでに存在する希少な資源をひたすらに収奪し、消尽することでしか生き残ることはできない――『マッドマックス』の男たちの闘争はそのような闘争なのだ。
『怒りのデス・ロード』のエコフェミニズムの批判的まなざしはまさにそのような「いま・ここ」に向けられているだろう。男たちの終末に向けた爆走は、環境と女性という二つのものの収奪と消尽の上に成り立っている。その事実を忘却しながら。Remember me?というフュリオサの決め台詞はそのような忘却に向けられた刃だ。
というわけで、『フュリオサ』の男たちは、ただひたすらに不毛である。彼らは奪い、消費することしか知らない。それは、自然や女性を、再生産することなく奪うだけの現在の資本主義の不毛さそのものである。