ユートピアとは、よく知られているように、「どこにもない場所」の意である。そして、「ディストピア」がユートピアの反義語であるなら、それは「どこにでもある場所」もしくは現実の「いま・ここ」ということになるのだろうか。
思えば、ジョージ・ミラー監督の『マッドマックス』シリーズは、近未来のディストピアを描きつつ、じつは常にその時代の「いま・ここ」を描いてきたのかもしれない。期待の最新作『マッドマックス:フュリオサ』を観ながら改めて思ったのはそれであった。
名作『マッドマックス 怒りのデス・ロード』のスピンオフ、しかもあの女戦士フュリオサの前日譚ということで、圧倒的なフェミニスト・ストーリーを期待していた私は、この作品に多くの点で肩透かしを食らったような感覚がなかったわけではない。
それは、『怒りのデス・ロード』で異彩を放ったイモータン・ジョーと彼のウォー・ボーイズだけでなく、バイカー軍団を率いるディメンタス、さらにはガスタウンや弾薬畑といった、これまでは物語の外側にあった場や勢力を登場させ、複雑な勢力抗争を描いたゆえに、肝心のフュリオサの筋が霞むとまでは言わないが、弱くなってしまったせいかもしれない。
しかし観賞からしばらく経って、私はこの映画を、『マッドマックス』の元々のジャンル――上記の意味でのディストピアもの――として見るべきだと考えを変えてきている。そしてそれは、前作にあったフェミニズム要素を取り去って見るべきだということではない。まったく逆である。以下、それがなぜであるかを示したい。
『怒りのデス・ロード』はエコフェミニズム的作品
『マッドマックス』シリーズが描く「いま・ここ」とは何だろうか。それは、資本主義の成長が環境的な限界に達した現在にほかならない。実際、第一作が公開された1979年に先立って、1972年にはシンクタンクのローマ・クラブが報告書『成長の限界』を発表し、当時の人口増加や環境汚染がそのまま続けば、100年で成長は限界に達するだろうと予言して大きな話題となった。
水や食料、そしてガソリンといった限られた資源をめぐって激烈な闘争が行われる『マッドマックス』の世界(とりわけ世界大戦の後に設定された『マッドマックス2』の世界)は、『怒りのデス・ロード』と『フュリオサ』にも強度を増して引き継がれている。そのことは、1970年代の状況が現在もなお改善したとはいえず、資本主義が成長を続ければ地球環境は確実に限界を迎えるという認識を背景にしているだろう。
『怒りのデス・ロード』はそこにさらなるひねりを加えた。この作品はフェミニズム的であることで評価が高いが、そのフェミニズムは単なるフェミニズムではない。それはエコロジカル・フェミニズム(エコフェミニズム)なのである。