世界最大の自動車メーカー、トヨタ自動車。その社長である豊田章男にはクルマの師匠がいた。トヨタのテストドライバー、成瀬弘。本書はこの師弟の不思議な絆を静かな筆致で描く。
15年前、アメリカ現地法人の副社長だった豊田は初対面の成瀬にいきなり叱責される。「運転のことも分からない人に、クルマのことをああだこうだと言われたくない」。これを機に豊田は大好きだったゴルフをやめ、成瀬に弟子入りし、自らレース活動とスポーツカーの開発に深く入り込んでいく。
専門学校卒業後20歳で入社した成瀬は現場叩き上げのテストドライバー。「感性の職人」である。自動車開発ではあらゆる性能が数値化される。しかし、「運転の楽しさ」「走りの気持ちよさ」は人が走行テストを繰り返すことでしか評価できない。成瀬はトヨタの300人のテストドライバーの頂点にいる「トップガン」だった。
絵に描いたような職人肌の成瀬。本書には成瀬の味わい深い言葉がちりばめられている。「あれがいい、ここがいい、と言われているうちはまだダメ。乗ってみて『ああ、これはいいね』と言われるのが一番いい」。「クルマのことをアレコレ言えなくてもいいんだ、まずは好きか嫌いか言えるようになれ」。
成瀬の薫陶を受けた豊田は、効率と数値目標一辺倒で「まるで銀行のよう」といわれたトヨタを変えた。販売台数の目標を聞かれても「台数は結果」と答える。代わりに出てくる言葉は「もっといいクルマをつくりたい」。販売台数至上主義から、創業以来のトヨタの現場重視の質実剛健なスタイルを取り戻した。
14年ぶりに創業家出身の社長となった豊田は「道楽者」「子ども社長」と揶揄された。リーマンショック後の赤字企業としての再出発。その後すぐにリコール問題が発生、豊田はアメリカ議会下院での公聴会に引きずり出される。さらには東日本大震災やタイの大洪水が追い討ちをかける。次から次へと押し寄せる困難を克服して、トヨタを復活させた豊田章男の並外れた強さ。理屈抜きにクルマが好きだからこその強さである。その原点には成瀬弘という一人のクルマ職人の存在があった。
豊田の社長就任の1年後、成瀬はテスト走行中の事故で亡くなっている。享年67。空の上から成瀬はいまのトヨタをどう見るだろうか。「まだまだ、こんなもんじゃない……」と苦笑いしながらも、確かな手ごたえを感じているのではないか。
クルマという工業製品の奥深さと「ものづくり」の真髄を鮮やかに浮き彫りにする快作である。
いないずみれん/1979年東京都生まれ。ノンフィクションライター。早稲田大学第二文学部卒業。『ぼくもいくさに征くのだけれど 竹内浩三の詩と死』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。著書に『命をつなげ』『復興の書店』『ドキュメント 豪雨災害』等。
くすのきけん/1964年東京都生まれ。一橋大学大学院国際企業戦略研究科教授。著書に『「好き嫌い」と才能』『戦略読書日記』等。