――作中に、実際にストリートで流行っているスニーカーを履いた女の子が登場するのも、新鮮でした。『シーツの隙間』とか。
桜沢 あの頃は渋カジブームで、そこにスニーカーが組み込まれていたんですよね。それこそエアマックスとか。私も当時はニューバランスの1300とか履いてた。
他にも、渋谷にいる男の子がみんなフェンディのマフラーを巻いていた時期があって、「これを描いておけば一発で今の高校生に見える」と思うものは描いていたかもしれません。
――当時、渋谷にいる男の子がみんなフェンディのマフラーをしていることを知っていらっしゃるのが、That’s東京って感じです。
桜沢 でも、東京といっても板橋区の出身だし、私が高校生の頃は原宿の竹下通りも途中までしか行けなかったんですよ。
――その先に怖いお店でもあったんですか?
桜沢 そういう訳じゃないんですけど、当時は果てしなく長い気がしていました。今行くと、すごく短い距離ですけどね。
――桜沢さんはその頃からクラブに出入りされているもんだと思っていました。
桜沢 全然です。「ピテカントロプス・エレクトス」は噂しか聞いたことなくて、「ツバキハウス」も最後の方にポツッと行ったぐらい。自販機本の編集部は行けても、ピテカンには行けなかった(笑)。
桜沢作品の影の立役者?
――桜沢さんが描く男の子たちも魅力的でした。モデルは当時ご自身の周りにいた子たちですか?
桜沢 たしかに、タレントの卵やモデルの子がいっぱいいたような気がしますね。
――漫画業界の人達より、そういった業界の人の方がウマが合ったとか?
桜沢 話が合うのは漫画業界ですね。ただ、漫画家さんと会うと、どうしても漫画の話だけになっちゃって、何となくそれが辛くて。最初は『宝島』とか『ガロ』とか漫画周りにいたんですけど、クラブに行くようになってからは、漫画以外の話が出来る京子ちゃんや中尊寺と遊んでたかも。