著者の新作は、末端の原発作業員に与えられた、メルトダウン阻止へのミッションの結末(「道成寺」)、失業した漁師の夫の暴力から逃れて幼い子を育てる妻の苦悩(「卒都婆小町」)など、“原発事故”によって人生を変えられた人たちを描いた5篇の短篇集だ。各篇のタイトルが能(謡本)の演目からとられ、物語構造もそれらに準じていることで、事故のまがまがしい恐怖が妖しく浮かび上がってくる仕掛けになっている。
「能は、死者やこの世の外の者たちとの邂逅の物語です。古典として後世の様々な物語に引用されることで、実際に観たことがない人でも日本人ならなんとなく内容が身体に滲みこんでいる。千年以上生き残ってきた能の形式を借りることで、読み手が人の想像力をはるかに超えるあの事故を把握し、記憶する手がかりになるのではないかと考えました」
震災からわずか5年しか経っていないにもかかわらず、原発事故が過去のものとなりつつある日本の状況に対して、イギリス人の友人から「(日本の)小説家が悪いんじゃないか」と皮肉交じりに言われたことも執筆の動機の一つだという。
「海外に住む友人から見ると、チェルノブイリは30年経った今でも終わっていない、日本だってまだ原子力緊急事態宣言が解除されていないじゃないか、日本の小説家がフクシマを書かなくてどうする、それこそが小説家の仕事じゃないか、という感じなのだそうです。むろん外にいる者の勝手な言い分ですが、未来の子供たちに『あの時の(日本の)小説家が悪かった』と言われたくない、という思いも正直あります」
震災の中でも原発事故にテーマを絞ったのはなぜか。
「津波被害と違って、人間が地球上にいなかったらあの原発事故は起こらなかった。人が引き起こしたことには、人が責任をもって向き合わなければならないはずです。それなのに、復興の名の下に、津波被害と原発事故の影響の区別が曖昧にされていく危機感がありました」
3・11は日本の社会の言葉にも変化をもたらしたのではと柳さんは分析している。
「震災前は『絶対に原発事故は起きない』と言っていた学者や政治家が、事故後は『直接的な健康への被害はない』と平気で話している。専門家の言葉がすべて嘘だったことが暴露されたわけです。しかも、嘘であったことに対して誰も責任を取らない。そんな中で、これは嘘ですよと宣言して書いている小説家の言葉に何の意味があるのか、と考えさせられる日々でした。3・11後はそれまで想定していた読者像が見えなくなりました。“読んでいて楽しい”だけが小説なのか、小説はそれだけのものなのか、と改めて考え、書けなくなった時期もあります。
今回はあえて耳触りの良くない言葉も物語の中に繰り込むことによって、『小説にはこんなこともできる』と示す作品になったと思います」
ジェット機が落ちても壊れないはずの原発建屋が爆発した。地元出身の末端作業員は事故直後の原発内に――(「道成寺」)。“放射線被曝は見えない固い糸の数々が体を貫くイメージ”。そう聞かされた慶祐が逃げた先とは(「黒塚」)。ほか原発事故の恐怖を描いた全5篇。