スタバにある不思議な一体感
それはスタバという空間に、強烈な「一体感」があるからだ。2009年前後、アメリカでスタバが経営不振になったとき、経営者だったハワード・シュルツがこのような回想をしている。
「スターバックスの閉店に反対する人を見て、近所のカトリック教会が閉鎖されたときに起こった反対運動を思い出した」と友人が言った。その通りだ。スターバックスは俗人にとっての教会のようなものである。静かで「礼儀正しく」とか「瞑想しましょう」とか注意書きが壁に貼ってあるわけでもないのに、みんなそうしている。(『スターバックス再生物語 つながりを育む経営』徳間書店)
「教会とスタバ」が並べられているのだ。「そんな、大袈裟な……」と思わずにはいられないが、キリスト教徒が集まる宗教施設と同じぐらい、スタバにも不思議な一体感があると思われていたのだ。
同じことをアメリカのスタバで感じた日本人がいた。今から26年前のことだ。
名高いフラペチーノ実験の頃のサンタモニカ各店で私は不思議なことに気がついた。同じ時に同じ人がいつも集まる。ちょうどパブやバーと同じように。ある人は新聞を読み、ある人は原稿を書く。お互いがお互いを認識しあっているのはわかるが、滅多に話し声は聞こえない。別々な時間の過ごしかたにもかかわらず感じられる、強烈な連帯感、同一性。滞店時間2分のテイクアウト客にすらそれがある。(京極一「下方排除と上方排除にとって形成される“同一性”のなかにわれわれは至福の時間を過ごす」「月刊食堂」1998年9月号)
さらに、「強烈な連帯感、同一性」が生まれる背景には、こんなことがあるというのだ。
店内に置かれたパンフレットを読んでみてほしい。そこでは他と比べてスターバックスが優れている理由が力説されている。排除のメカニズムを強化するためである。(「月刊食堂」1998年9月号)
当時のスタバの店内には、「今、あなたたちがいるスタバはこんなにも優れているんですよ」と思わせる仕掛けがたくさんあったのだという。そこで生まれるある種の「選民意識」を刺激することで、スタバには強烈な一体感がある、というわけだ。