マインドコントロール下に置かれた一家6人が互いを拷問・虐殺…日本犯罪史上でも類を見ない凶悪事件「北九州監禁殺人事件」はなぜ起きたのか? 主犯・松永太死刑囚と共犯者・緒方純子の出会いを、新刊『世界の殺人カップル』(鉄人社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)

松永太死刑囚(中学時代の卒業アルバムより/写真提供:小野一光)

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家族同士が互いを虐待し殺し合う壮絶事件

 1997年から1998年にかけ、家族同士が互いを虐待し殺し合う日本犯罪史上に刻まれる凄惨な事件が起きた。いわゆる北九州監禁殺人事件。そのあまりにショッキングな内容からメディアが報道を控えた本事件は全て主犯の松永太のマインドコントロール下で行われたものだ。共犯の緒方純子が妻子ある松永と男女関係になったのも、緒方家の財産が根こそぎ奪われたのも、緒方の両親・妹を含む一族6人が死亡したのも、そこには松永の類い希なる人心掌握術が働いていた。

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「俺、フトシちゃん。覚えてる?」

 始まりは1980年夏、松永(当時19歳)が緒方(同18歳)にかけた1本の電話だった。高校の同級生だったものの、ほとんど会話をしたことのない松永からの突然の連絡に戸惑う彼女に、松永は「卒業アルバムを見ていたら、自分の妻と同じ名前(ジュンコ)の君が載っていて懐かしくて電話をかけたんだ。確か、在学中に50円借りていたから、それを返したい」と言う。まるで記憶のない話に純子は適当に受け答えし電話を切ったものの、松永は1年後に再び連絡をよこし交際を迫った。最初こそ警戒していた緒方だったが、明るくユーモアのある話ぶりに心を許し、デートの誘いに乗る。これが彼女が地獄に落ちる第一歩だった。

 松永は1961年4月、福岡県北九州市小倉北区で畳屋を営む両親の長男として生まれた。7歳のころ、父親が実家の「松永布団店」を引き継ぐため同県柳川市に転居。入学した地元の小学校では全学年を通して「オール5」で、学級委員長や生徒会役員を務めた。中学1年時には校内の弁論大会で3年生を差し置いて優勝。理路整然と語る口の巧さは当時から発揮されており、所属していた男子バレーボール部ではキャプテンを担った。成績優秀でリーダーシップもあり、一目置かれる存在ではあったものの、教師からの評判は低かった。

 というのも、当時から自分より弱い存在に対して横暴な態度を取っていた他、己を大きく見せるための虚言癖があり、小・中学校時代の一部同級生も、松永の裏の顔をよく知っていたという。

 1977年、緒方も在学していた久留米市にある福岡県立三潴高校に入学。風紀委員長として活躍していたが、高校2年生ときに家出した女子中学生を家に泊めたことによる不純異性交遊が発覚、退学処分となり、同じ久留米市の私立高校に編入する。卒業後は大学に進学せず、福岡市内の菓子店に就職するものの、わずか10日で退職した。

 その後、親類が経営する布団販売店などを転々としてから、1981年5月に父親から家業を譲り受け、柳川市の自宅を本店とする布団訪問販売会社「ワールド」を設立。持ち前のコミュニケーション能力をフルに発揮し、原価3万円の布団を25万で売りつける詐欺的商売で会社を急成長させ、多くの従業員を抱える。1982年1月に2歳年上のジュンコさんと結婚。約1年後の1983年2月に長男を授かる一方、妻が妊娠中だった1982年10月ごろに緒方と初めて肉体関係を持った。