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その後、小沢は選択を間違えた

 なぜ小沢がそれほどまでに力を持ち得たのか。私も直接本人に何度か会い、話を聞きました。当時の小沢は、命のやり取りすら辞さないと感じられるものすごいパワーを持っていました。政界でタブーといわれていたことにどんどん挑戦し、打ち壊していく。その迫力は凄まじいものがありました。小沢は、多くを語らない政治家でした。マスコミで自分の主張をする政治家が多かったなかで、あえて説明しない、それがカリスマ性を与えていたのかもしれません。小沢は自分と他者をコントロールする術に長けていたのです。

 90年初頭は東西冷戦が終わり、世界各地で政治的変革が起き、ある意味希望に満ちた時代でした。バブル崩壊は始まっていましたが、日本の経済はまだ元気で「経済一流、政治三流」と言われていた。長かった昭和が終わり、平成という新しい時代になった。日本もこれから変わる、政治もグローバル化する。国民のなかにはそれを実現するのが小沢だと幻想を抱き、期待する人も多くいました。そして同じくらい、強烈に嫌い、批判する人もいました。

 でも小沢は、叩かれれば叩かれるほど力を発揮した。小選挙区制を導入し、自民党を割り、連立政権を樹立した。そこまでは思い描いた通りだったと思います。

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御厨貴さん ©文藝春秋

 しかし、その後、小沢は選択を間違えました。それは彼自身が表に立たなかったこと。小沢は連立政権の代表幹事になり、裏から政権を操ることを選びました。二重の権力構造を作り上げ、自らは責任を取らない。その裏からの政治が国民から「怪しい」と思われた。

 もしあのとき彼が自ら総理になっていたら、彼に期待する国民の多くは応援したでしょう。その後の日本の政治もずいぶん違うものになっていたかもしれない。でもそうはならなかった。連立政権崩壊後は“壊し屋”と呼ばれるようになり、結局、永田町はもとの自民党政権に戻っていきました。

 90年代初頭の政界のキーワードのひとつに「マドンナ旋風」というものがありました。社会党の土井たか子委員長が大ブームを巻き起こし、多くの女性国会議員が誕生しました。しかし残念ながら、いまも永田町において女性議員は少数派。女性の政界進出は遅々として進んでいません。

 そこには様々な理由がありますが、一番大きいのは男たちが席を譲らないこと。男の、しかも80歳を過ぎた老人たちが地位と権力にしがみついている。しかもその老人たちがいまだに「男の論理」を振りかざし、女性たちに政界進出する余地を与えていないのです。