さて、日々の暮らしを大切にしつつ社会が理想に近づくように地道な変革を試みる「真正保守」を復権しようと、私は本連載を書いているのだが、一方、実際の「保守政治」が劣化を重ねて自壊に至りかねない様相を呈している。私の視界のなかで保守の理想と現実が極端に引き裂かれているのは、明らかに危機の局面の反映なのだが、そうであるからこそ、いまは変革への好機であると捉える必要があるだろう。危機を好機に置き換えるには、やはり歴史の地下水脈を辿り直し、その教訓に学ばなければならない。今回は、政党政治の成立と崩壊の過程を素描して、さらに、この状況に登場すべき変革者像を慎重に彫琢してみたい。
「桂園時代」から原内閣へ
日本近現代史において政党政治が本格的にスタートするのは、1918(大正7)年、「平民宰相」と呼ばれることになる原敬が内閣を組織してからであるが、原の登場前と登場後で、日本の政治はその姿を大きく変えた。
明治維新以降の日本の政治を動かしてきたのは「藩閥政治」であり、薩摩、長州出身者が政治の中枢を占めてきた。具体的な人物を挙げれば、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、山縣有朋、伊藤博文、黒田清隆、井上馨といったところになろうか。彼らは廃藩置県後の新たな官制で要職を独占して権力基盤を固め、「富国強兵」を牽引していった。1873(明治6)年、征韓論争によって分裂したが、1881年、国会開設、憲法制定をめぐる対立から起きた「明治十四年政変」で、開拓使官有物払下げ事件を契機に肥前出身の大隈重信を追放して、薩長出身者はさらに実権を握っていく。
1885(明治18)年、伊藤博文が内閣制度を創設して初代首相になってからは、薩長は、官僚、軍部、警察、経済界に勢力を張りめぐらせ、自由民権運動からの批判を受けながらも、憲法制定、国会開設など、明治国家の根幹を築いていく。藩閥政治では、多くの薩長出身者が、首相、大臣、元老に交代で就任した。
原敬内閣が成立して藩閥政治から政党政治への転換がなされる以前に、過渡期が存在した。1901(明治34)年から、日露戦争(1904年〜1905年)を挟んで1913(大正2)年までの十数年間、長州出身で山縣有朋の後継者である桂太郎と、立憲政友会総裁であった西園寺公望が交互に政権を担当した「桂園時代」である。
第一次桂太郎内閣の後期、日露戦争終結前後の政治的危機を乗り越えるため、桂首相は立憲政友会の原敬と会談を重ね、講和条約への同意を得るかわりに、次期政権を政友会総裁の西園寺に譲った。以後、長州閥の官僚を押さえた桂と、政党政治を象徴する西園寺が妥協して、たらい回しのような形で政権を運営していったのである。藩閥政治の全面支配からは脱しつつあるが、政党政治まではいかない状態と言っていいだろう。原敬はこの時期に、「交渉」によって現実を動かす政治的な実力をつけていった。
桂園時代は、日露戦争後のポーツマス条約に反対する日比谷焼打事件、労働運動の激化など、「大衆の反逆」に揺さぶられた時代でもあった。反体制運動に対しては、西園寺内閣が取り締まりを緩くすると、桂内閣が強権的に対峙するという傾向があった。1910(明治43)年、大逆事件に直面した桂内閣は、政友会との協調を深める路線を取ろうとし、翌1911(明治44)年、桂首相は政友会議員との会合の席で、「情意投合し、協同一致して、以て憲政の美果を収むる」と語っている。これは、公的に約束はしていないが、暗黙のうちに意思疎通をはかって政権を運営していこうという呼びかけに他ならず、「情意投合」は桂園時代を象徴する言葉となった。
だが、立憲政治の確立を目指す第一次護憲運動によって議会を包囲されて第三次桂内閣が倒されるという「大正政変」が起こり、桂園時代は終焉する。
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保阪正康氏による「日本の地下水脈 次期首相7つの条件」全文は「文藝春秋」「文藝春秋 電子版」に掲載されています。