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次男は廃嫡、その長男が生物学の道をあきらめ跡を継ぐ

篤二の孫・渋沢雅英(まさひで)は「(篤二は)栄一の長男ではあったが、身体も弱く、実業にはあまり興味もなかったとみえて、その方ではとくに名を成さなかったけれど、生まれつき多才で趣味の豊かな人だったという。狂歌を読んだり、義太夫(ぎだゆう)(浄瑠璃(じょうるり))も素人の域を脱していた。一時、写真に凝って、その作品集を後に『瞬間の累積』と題して父(渋沢敬三)が出版したが。ルポルタージュ写真としては、日本の草分けともいうべきすぐれた感覚と技術をもっていた」(渋沢雅英『父・渋沢敬三』)。

ここまでの文章で気がつかれた方もいらっしゃると思うが、渋沢一族には書籍出版されている方が多い。文才に富んだ一族で、事業なんか向いていないのかも知れない。

結局、篤二は廃嫡(跡取り息子から除外)され、篤二の長男・渋沢敬三が栄一の家督を継ぐことになった。この敬三も生物学に進みたいという思いを、祖父・栄一にやんわりと反対され、銀行家の道に軌道修正した。

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「向いていない」と言いながら日銀総裁になった孫の渋沢敬三

敬三は「私は実業に志してはいなかったので、銀行は大切だと思いましたが面白いと思ったことは余りありません。しかし、真面目につとめておりました。が、人を押しのけてまで働こうという意志もありませんでした」と語っている(『瞬間の累積』)。それなのに、第一銀行副頭取から日本銀行総裁、大蔵大臣(財務大臣)まで務めたのだから、よほど優秀だったのだろう。

渋沢栄一と同時に新千円札になる北里柴三郎(1853~1931年)にも共通点がある。

意外に知られていないが、北里はその多大な功績から男爵を授与されている。しかし、かれの長男・北里俊太郎(1895~1953年)は爵位を継承しなかった。

新千円札の北里柴三郎の長男は芸者との心中事件を起こす

医者は子どもを医者にさせることが多いが、俊太郎は医学の道に進まず、三井物産に就職した。ところが、戦前の三井物産は、信賞必罰が徹底した超「肉食系」である。俊太郎は早速出世コースから脱落したらしい。安月給で生活がままならず、実家に生活費の援助を求めては、厳格な父に拒絶され、母から内緒で融通されるが、それが知れて父子間が厳しくなる。