これが現代のパートである。本作は二筋の流れで書かれていて、もう一つは坂井裕二が主人公となる過去のパートだ。ここでの裕二は坂井ではなく、津村の姓を名乗っている。過去パートで最初に描かれる裕二はまだ就学前だ。小学1年生になったばかりのある日、彼は父親である津村に突き飛ばされて自動車にはねられる。こうしたことは一度きりではなく、何度も起こる。父親は彼を使って当たり屋をやっているのだ。母親とも引き離され、父親の言うことを聞くしかない裕二は、幾度も傷を負う。そして運命の日がやってくる。
書いていいのはここまでだろう。裕二の物語から先に言及すると、この救いのない少年の人生は運命の日を境に大きく変化する。ここで描かれているのはヤングケアラーの問題であり、親に運命を決められたために自由を奪われてしまったこどもの物語である。裕二の感じる哀しみに心を痛める読者も多いと思う。だが待っていただきたい。ページはまだまだ残っているのだ。運命の日とそれに伴う変化までが裕二パートの第一幕だとすれば、第二幕からは大きな変容が訪れる。
第一幕でしっかりリアリズムの足場を組み立てていた作者が、そこからミステリーならではの奇想を注ぎこんでくるのである。奇譚の意外性であり、伝奇小説で描かれるような、人の世の不思議を描いているともいえる。裕二の人生はここから、当人のあずかり知らない形でうねり始めていく。揺れに身を委ねながら読者が思うのは、この数奇な物語がどのように現在と、そして1968年の過去と結びつくのか、ということではないだろうか。
現在パートの視点人物である千遥は、悲嘆の中にいる主人公だ。父の哀しみからはまだ立ち直れておらず、他人に対しては頑なである。過去パートで大人の玩具として裕二が翻弄されているのと、千遥が他人を排して殻に籠っているのとが並行して描かれているのが小説の工夫である。千遥が閉じた扉を開けて再び世界に足を踏み出す過程は、大人によって未来を鎖されたことのある裕二の人生と対比される形で綴られる。この二人が偶然の出会いから互いの運命を変えていくという、ガール・ミーツ・ボーイの物語でもあるのだ。複数の古典的なプロットを組み合わせて独自の作品世界を構築していくのは伊岡瞬のお家芸だ。この作者の物語はどれも複雑で、未知の驚きに満ちている。