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だが、それは道長が今日的な意味で「人格者」であったのとは意味が違う。道長は政治を安定させるために、どんな手段に訴えたのか。第27回「宿縁の命」(7月14日放送)で定子が産む敦康(あつやす)親王の運命をたどりながら確認してみたい。

道長の長女、彰子は長保元年(999)11月1日に入内した。その行列には多くの公卿たちが付き従ったことからも、朝廷の安定のために、貴族たちがこの入内を歓迎していたことがうかがい知れる。そして11月7日、一条天皇は彰子を女御にするという宣旨(天皇の意向を伝える文書)を下した。

すると、奇しくも同じ11月7日の早朝、定子は一条天皇が待ち望んだ第一皇子となる敦康親王を出産したのである。

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当時、天皇の秘書官長にあたる蔵人頭で、「光る君へ」では渡辺大知が演じる藤原行成の日記『権記』には「仰せて云はく、『中宮、男子を誕めり』。天気快然(天皇は仰せになりました、『中宮が男子を出産した』と。上機嫌のご様子でした)」と記されている。

「定子の死」で頭を悩ませる道長

定子が皇子を産んだのを受け、道長は後宮における彰子の価値を維持するために、彰子の立后(正式に皇后にすること)を急ぎ、強引に「一帝二后」を実現させてしまう。

だが、長保2年(1000)2月10日、彰子が立后の準備をするために実家の土御門邸に下がると、翌日には早速、一条は定子を内裏に呼び寄せた。その結果、ふたたび妊娠したものの、これが命とりになる。定子は12月15日、第二皇女の媄子(びし)を出産したが、後産が下りず、翌朝に亡くなってしまう。

敦康親王はこうして生母を失い、叔父の伊周らもかつての地位になかったため、後見がない状況に置かれることになった。

とはいえ、一条天皇の父であった円融天皇の皇統の唯一の皇子である。数え12歳で入内した彰子がまだ若すぎて、懐妊の可能性がほとんどない以上、道長は不本意ながら敦康親王を後見するしかなかった。