また、亡き定子は一条天皇の唯一の皇子の母であり、皇子はやがて即位する可能性が高い。そうした状況を受け、定子は死後に同情を集め、彼女を「国母」と呼ぶ向きまで現れた。彰子を盛り立てたい道長にとって、定子は死んでなお、悩ましい存在になったのである。
今度は定子の妹を寵愛した一条天皇
一方、一条天皇はといえば、敦康親王に愛情を注ぎつつ、定子への追憶も激しかったが、それだけで終わらなかった。道長の長兄であった道隆の四女、すなわち定子の末妹で敦康親王の養育をまかされていた御匣殿(みくしげどの)に、一条の寵愛が向かったのだ。入内さえしていなかった御匣殿だが、おそらく、天皇は彼女に定子の面影を見たのだろう。
これに対し、道長は対策を講じている。敦康親王を御匣殿から切り離し、彰子に育てさせることにしたのだ。道長としては考え抜いた作戦で、たんに一条と御匣殿を切り離すだけにとどまらなかった。
というのは、敦康が彰子のもとにいれば、一条は敦康への会いたさから彰子のもとを訪れる機会が増え、彰子が皇子を産む可能性が高まる。また、彰子に皇子が生まれず、敦康が即位することになっても、彰子が養母で道長は養祖父という関係をつくれれば、権力を維持できる。そんなねらいがあったと考えられる。
しかし、長保4年(1002)に御匣殿は懐妊しながら、6月3日には亡くなってしまった。かといって、一条天皇の目は、彰子には向かないままだった。
置き去りのままの彰子
その後も、道長は敦康親王を後見し続け、寛弘2年(1005)には、道長にとって不利ともいえる状況が生じた。中関白家の伊周や隆家、すなわち定子の兄弟を復権させる流れになったのである。
一条天皇にすれば、敦康親王の外戚である彼らを、それにふさわしい地位にしておきたい。一方、道長も、かつての政敵に恨まれたままにはしておきたくなかったのだろう。
隆家はすでに、流罪になる前の権中納言に復帰していたが、伊周も「大臣の下、大納言の上」という席次になった。もっとも、藤原実資の『小右記』によれば、昇殿を許された伊周に対する公卿たちの反応は冷ややかだったそうだが。