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また、翌寛弘3年(1006)3月には、一条天皇が敦康と対面する儀式に加え、定子が産んだ第一皇女である脩子内親王の裳着(貴族の女子の元服)も行われた。それらは道長の後見のもとに行われたとはいえ、中関白家が復権することへの不安を、道長は拭えなかったと思われる。

さらには、このころ一条の寵愛は、彰子より先に入内していた藤原顕光の娘、元子に向かって、相変わらず彰子は置き去りのままだった。

これで敦康親王は無用の存在になった

寛弘4年(1007)8月、道長は奈良県吉野郡の金峯山に詣でた。そこは山岳修験道の聖地で、道長は自身の極楽浄土への往生とともに、彰子の懐妊を祈願したと考えられる。

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そして、この年の12月ごろ、彰子は結婚から8年を経てついに懐妊した。金峯山詣での功徳だろうか。いや、そこまで必死な道長を見て、一条天皇としても彰子に懐妊してもらうしかなくなった、といったほうが正確だろう。

しかし、知られれば呪詛されかねないので、懐妊は寛弘5年(1008)3月になっても隠されていた。その後、出産のために彰子が帰った土御門邸では、連日、絶えることのない読経の声が重ねられた末、9月11日、彰子はのちの後一条天皇である敦成(あつひら)親王を出産した。

道長は『小右記』によれば、言い表せないほど大よろこびで、その後は、敦康親王という「保険」はもう要らなくなった。倉本一宏氏はこう書く。「これで敦康は、道長にとってまったく無用の存在、むしろ邪魔な存在となったのである。同様、伊周をはじめとする中関白家の没落も決定的となった。そればかりか、外孫を早く立太子させたいという道長の願望によって、やがて一条との関係も微妙なものになる」(『紫式部と藤原道長』講談社現代新書)。

翌寛弘6年(1009)、伊周の母方の関係者が、道長や彰子、敦成親王への呪詛を企てたとして逮捕され、伊周も参内を停止させられた。呪詛の真偽のほどはともかく、ことは道長の意のままに進んでいった。