2024年6月10日に北方謙三さんの14年ぶりの現代小説『黄昏のために』が刊行されました。一人の画家の男を主人公にした掌篇集で、“究極の絵”を独り探求する画家の苦悶と愉悦が匂い立つ18篇が収録されています。
刊行を記念して、「文學界」で同じく画家を主人公にした小説「谷中」を連載中の松浦寿輝さんとの対談が実現しました。創作作法からイタリアへの旅、画家にまつわる映画まで、グラスを手に語り合った模様をお届けします。(『文學界』2024年7月号より転載。写真=石川啓次)
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松浦 最新短篇集、読ませていただきました。『黄昏のために』というタイトルからも、北方さんの人生への思いが滲んでいますね。画家が主人公の北方さんの小説ということで、まず僕の頭に浮かんだのは、〈ブラディ・ドール〉シリーズの四作目の『秋霜』です。当時北方さんはまだ四十歳そこそこで、六十歳近い男の心境を想像して書かれたわけですね。そのほぼ十年後、五十歳近くになって『冬の眠り』を出された。これは事件らしい事件がほとんど起こらない静謐な長篇小説ですが、その主人公は三十代の画家で、作者と登場人物の年齢の関係が『秋霜』とは逆転している。今回の『黄昏のために』の主人公は、庭で薔薇を丹精しながら「老眼鏡が必要になるのは、そう遠い時ではないだろう」と思っているというから、まあ五十代半ばくらいでしょうか。まだ枯れ切ってはいない感じが魅力的なのですが、しかしなぜ画家なんでしょう。
北方 小説家だと生々しすぎるんですよ。でも、何となく自己表現したいんです。だから、画家にしようと。松浦さんだって『谷中』は画家で書いているじゃないですか。今日は画家同士の対談だなと思って来たんですよ。
松浦 そういうことになっちゃいましたね(笑)。昨年初めにお目にかかったとき、「一本十五枚の短篇を書き溜めて、一冊ぶんになったら短篇集を出す」とお聞きしました。その後、『チンギス紀』全十七巻という偉業を達成されたわけですね。長い階段を上りつづけていったん踊り場に出て、次の階段にかかる前にちょっと休憩という感じでこの短篇連作を書かれたのかなと、最初は思ってしまったんですが、実はこの連作は二〇一七年から書き出されているんですね。
北方 最初の六本ぐらいまでは、一冊の本にする気はなかったんですよ。長篇を書き進めるための言葉はいくつでもあって何行でも書けるけれど、枚数を十五枚に限定すると、選ぶべき言葉がたった一つしかなくなるんです。それで長篇で間延びしちゃった文体が引き締まる。そのために短篇を書いていました。
松浦 大長篇の執筆の合い間に、文章の気息を整えるようなおつもりで書き継がれていったということでしょうか。それにしても、十五枚というのは微妙な距離ですよね。それを走り抜けるのか、歩き通すのか。
北方 文体のためには、短ければ短いほどいいんです。本当は五枚でもいいんだけれど、難しいな。十五枚でも難しかった。今回は凝りに凝って、すべて原稿用紙の十五枚目の最後の行で終わらせました。
松浦 僕が注目したのは、十八篇すべてが二章立てになっていること。三章であれば序破急、四章なら起承転結で、結末がついて一応小説らしいかたちをなす。ところがこの連作の一篇一篇は、二つの章の組み合わせで出来ている。厚紙で紙飛行機を作るとき、胴体を作り、翼を作って、ぶっ違いに組み合わせるでしょう。それを投げると、風に乗ってすうっと飛んでいく。なにかそんな印象を受けたんです。
北方 飛行機だと考えたことはなかったけれど、何か動的なものを作品構成の中に求めたんでしょうね。それがどういう効果をもたらすかは、書いてみないと分からない。それに十五枚だと最後の一行が決まらなかったら全然駄目なんだ。
松浦 一篇ごとの着地はもちろんどれも見事に決まっている。ただ、いわゆる「よく出来た短篇」「短篇らしい短篇」――日本の近代文学はそういうのが得意ですよね――の締め括り方ともちょっと違うんです。ぷつっと切れて読者を放り出しつつ、しかも微妙な気合いで次の短篇につながっていく、そういう呼吸なんです。
北方 十本目を過ぎたぐらいで色気が出て、一冊の本にはなるのかなと思って、書き継いだところはあります。一番意識したのは、文章ですよ。繰り返しがなく、同じ言葉も使わずに頭からひと息で書いていけるか。
松浦 僕の見立てでは、北方さんは基本的には、やっぱり長篇作家、極めつきの長篇作家だと思います。長い長い物語を書き継いでいく現場で、一種の物狂いみたいな世界に入りこんじゃうわけでしょう。怒濤のような語りの奔流に巻き込まれ、あれよと流されていく感じなんじゃないですか。ところが今回の短篇集では、言葉一つ一つの前に立ち止まって、センテンス一つ一つを手仕事で削り出していく、そんな感触がある。それは、小説家の基本的なトレーニングですよね。
北方 そういうことです。気息を整えるといえば、僕は居合抜きをやっているんです。三畳巻きっていう胴体ほどの太さの巻き藁を抜き打ちで斬るには、気息が整うまでじーっと待っていて、スパーンと刀を振り下ろす。その瞬間に言葉が出るような感覚があるんだろうと。
松浦 『冬の眠り』の主人公は一種破滅型の芸術家ですが、今回の主人公の画家は、むしろ非常に細心に自己を律して生きている男です。注意深く薔薇を丹精したりしているわけで。
北方 だから、やっぱりよく考えると自分を書いてます。私、結構勤勉なんですよ(笑)。
松浦 それは存じております(笑)。北方さんって遊興的な男というイメージが世間的にはあるけれど、底のところではものすごく禁欲的な性格でしょう。
北方 そうです。特に長篇小説を書き始める時は相当禁欲的だと思う。