かたちが解体していく寸前を
松浦 北方さん、そもそも絵はお好きなんですか。美術館によく行ったりなさいます?
北方 いや、たまに行って、チラチラチラッと見て行くぐらい。じっくり鑑賞するってできないの。パッと気になった絵の前に止まって、じっと見てるとかいうのはやるけど。一時、ロイ・リキテンスタインとかアンディ・ウォーホルとか、前衛に凝って、この必然性はどこにあるんだと考えたりしたけど。でも、どこか俺は理解できない。松浦さんはアブストラクトに対して、「解体する」と書いていた。あれはどういうこと?
松浦 とにかくリアリズムの「解体」という大きな流れがありますよね、二十世紀美術の展開で言うと。それでかたちが消えて、線と色の戯れみたいな抽象的な画面構成になっていく。カンディンスキー、モンドリアン、クレー……。まあリキテンスタインやウォーホルはちょっと違うけど。アブストラクトの絵にはご興味はないですか。
北方 あそこはすごく興味深く読んだんですよ。具象からポーンと抽象へ飛ぶ時に、理屈じゃない何かが働く。具象はものを介在させているんですよ。何を描いても。でも、抽象になった瞬間にものが介在しなくなる、それを松浦さんが「解体」と書いていたんだよね。それがすごく気になって、今日、聞こうと思ってた。
松浦 『谷中』にもちょっと出てくるんだけど、ニコラ・ド・スタールという、もともとロシア生まれですが戦前から戦後にかけてのフランスで活躍した画家がいて、この人の絵が僕はすごく好きなんです。ド・スタールの画面というのは、ある意味でかたちは残っているんです。エッフェル塔の絵があったりするんですから。ところが、それが真っ赤な三角形だけのエッフェル塔になっていく。原色をベタベタ塗り込めるような絵なんだけど、かたちは残りながら、しかしそのかたちが解体していく寸前の地点を追求しようとした、そういう画家です。緊張感に満ちた鮮烈な画面でね。
北方 私にはそんなふうな画家がいないんです。これを見習えと言われたのは、ベラスケス。ベラスケスは宮廷画家だから、非常な制約の中で描いたわけですよ。しかし、できあがったものは素晴らしい。表現物とはそういうものなんだと言われたことがあって。そう思いながらベラスケスを見ている間に、これは深いものがあるのかなという気になった。
松浦 若い頃、マドリードのプラド美術館に行って本物のベラスケスを見て、数年前にも行ってきました。基本的にリアリズムで、例えば宮廷の王女が着ている豪奢な服の質感なんかがものすごく克明にとらえられている。しかし実物を間近に見てみると、実はそんなに緻密に描いているわけじゃないんです。フランドル派の絵なんかとは全然違う。筆触は結構粗くて、ババババッと描いているだけなの。ところが、三メートルぐらい離れて見ると、絹の布地は絹に見えるし、毛皮は毛皮に見える。
北方 それは不思議だよな。
松浦 天才画家の画力ってこれほどすごいのかと思いましたね。ただ、スペインの画家で言うと、僕は北方さんの感性に近いのは、むしろゴヤだと思う。
北方 ゴヤね。近いかもしれないね。
松浦 ゴヤは動乱の画家だし、不吉なもの、不穏で禍々しい画題を扱っているし、アクションもあるし。
北方 ピカソはどうですかね。
松浦 ピカソは、これはね……。ともかく巨大な存在ですよね。
北方 僕は何も知らなくて、ピカソってああいう絵を描く人だと思っていたら、マラガに船倉を美術館にしたような、ピカソの若い頃の絵だけを集めたところがあるんです。これが完全にリアリズムなんだな。
松浦 青の時代なんかそうですよね。ただ、別れた妻や愛人たちが何人も自殺したり精神を病んだりしてるのはやっぱり、人間性に相当問題があったんじゃないかな。
北方 どうだろうな(笑)。
松浦 『冬の眠り』の主人公も一種の天才画家で、みんな絵を見て驚倒するわけですよね。今回の『黄昏のために』の主人公も、技術だけうまくなってもしょうがない、という思いが繰り返し語られて、そこには北方さんの物語に賭ける思いが投影されているのかなと思いました。
北方 そうです。それは小説も同じだと思うな。『冬の眠り』のとき、明確に見えていたのはものを作る時の狂気ですよ。今度の主人公は、狂おうと思っても狂えないわけ。俺は年を取ったら狂えなくなったんだよね。
松浦 あ、そうなのか。
北方 『抱影』は映画にもなったんですけれど、この主人公の画家は狂気でも何でもない、ただ単にドロドロに想像と交わって、それがついに暴力にまで行きついて、自分で命を落とすというやつでした。今度のは自身の中にはいろんな自己否定があるんだけど、創造の熱情をどうしても抑えきれずに、描いて描いて描いてしまう画家です。遊んでいるんじゃないかと思いながらデッサンしても、実は遊んでないようにできあがってしまう。そんなものを書いて、自分が小説を書くことに敷衍させて、いろいろ感じたことはありますよ。それが具体的に何かというのは、なかなか言えないんだけど。
松浦 狂気にまでは至り着かないにしても、激しい熱情はある。決して枯れていませんね。底が鮮やかに赤い靴を履いた「蹠から血を流しているような女」に、ちょっと色気が動いたりしてますね、この主人公。
北方 枯れてないです、そっちの方面では。だって、五十代の半ばですからね。でも、性的に枯れていないというのは、相当、小説の内容に影響してくると思うな。
松浦 山に紅葉した葉を集めに行って、火焔茸なんか採ってきますよね。真っ赤な色の不穏な毒茸が混じっていたりするわけで、その辺がやっぱり北方謙三だなと思いました。
北方 それも偶然ですよ。山に行ったら毒茸があって、それを持って帰ってきたというふうに、僕の想像力が動いちゃったんです。意図的なのは、一人の女の子が今にも口にしそうに顔を近づける、その瞬間のことだけ。
松浦 そんな瞬間ばかりが切り取られて、ちりばめられている。
北方 瞬間的なイメージがサーッと際立つ小説と言えば、大江健三郎の初期の短篇だな。『他人の足』とか『飼育』などの大江さんは本当に王道を行く小説家だったと思う。『洪水はわが魂に及び』あたりから、俺には分からなくなってしまった。思想が入ってきたりすると小説が分からなくなるんだと思うな。これは変わったなと思ったのが、『個人的な体験』ですよ。俺が高校生の時だったんだ。
松浦 障害を持って生まれた赤ん坊を死なせてしまうかどうか、それで奔走するあたりはもちろんフィクションだろうけど、自分の人生に起きた事件を大江健三郎が真っ向から描いたのは、あれが最初ですよね。
北方 だと思うな。吉行淳之介は自分のことを書いたようで書いてなかったんですよね。『闇のなかの祝祭』を書いた時、これは宮城まり子とのことを書いて、私小説的なリアリズムに後退したと俺は思った。それまでは三島由紀夫がビックリするようなリアリズムがあったんですよ。
松浦 それで言うと、北方さんにとってリアリズムって何でしょう。〝北方水滸〟にしても『チンギス紀』にしてもものすごくリアルだけど、史実を忠実に再現するリアリズムとは全然違うものを追求されていますよね。
北方 全然違います。歴史小説のこだわりというのはあって、決して説明をしない。描写でする。だから、いちいち何年って書いてないんです。大きな状況を設定して、流れの中で描写していく。例えば観応の擾乱という足利家のものすごい内乱がある。史料を読んでも何がどうなっているか分からないけど、物語で書いてみたら「『道誉なり』を読んで初めてよく分かった」と感想をもらったな。司馬(遼太郎)さんのやり方というのは、われわれが歴史小説を書き始める時の巨大な山だったわけですよ。でも、日本文学の中にはそれとは別の、中里介山だとか柴田錬三郎だとか、いわゆる大衆小説の系譜というのがあって、それが日本人の娯楽だったわけですよね。
松浦 国枝史郎とか、吉川英治も。
北方 そうです。そのほうがより小説的なのではないかという小説観はあります。
松浦 小説家の想像力が歴史的現実の真芯を射抜くことはあるわけですよね。チンギス・カンなんて三十歳くらいまではまったく史料がなくて、実人生はわからないわけでしょう。すべて想像力を駆使して書かれたわけですね。
北方 チンギス・カンに『史記』を読ませましたからね。