平成16年~17年に起きた「福岡3女性連続強盗殺人事件」。最後の犠牲者である福島啓子さん(当時23)の両親は、これまでメディアの取材を受けてこなかったが、犯行現場の公園での出来事をきっかけに考えを変えたという。ノンフィクションライター・小野一光氏が、啓子さんの父敏廣さんに話を聞いた。

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動き始めるまでに17年の歳月を要した

 これまで避けていた取材を受ける気になったのは、「夢を語る公園」の存在を伝えたいとの思いからだった。だが、そのきっかけは、さらに前年(22年)5月の出来事に遡る。

「夢を語る公園」©筆者提供

「啓子の昔の上司のYさんから、たまたまある話を聞いたんです。じつは前から、1月18日(啓子さんの命日)になると必ず、あそこ(公園)に花束が3つ4つ置いてありました。で、Yさんによると、啓子のこと自体は知らん世代の職場の後輩が、仕事の悩みとかがあるときに、あそこに行って手を合わせて相談しよったらしいんよね。そのことを知り、なんかできんかな、と。そうした流れで思いついたのが、ベンチを置くことでした。それで6月になって、(福岡市の)市長に手紙を出したというのがきっかけです」

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 敏廣さんいわく、「Yさんの話が起爆剤」となり、手紙を2回にわたって出したところ、最初の手紙から3カ月ほどで、市側から連絡があったのだそうだ。以後、福岡市や博多区の職員などとの話し合いが行われ、両親が寄贈するかたちで、ベンチが置かれることになった。そこに「夢を語る公園」と名付けたのは、啓子さんが大学時代に、チューターのアルバイトをしていた大手進学塾で、「夢を語る会」というサークル活動をやっていたことに由来するとのこと。

 それはつまり、娘を失ってから外の世界に向かって動き始めるまでに、17年の歳月を要したということでもある。敏廣さんは、事件が起きてからの日々を振り返る。

「自分らも精神的に、ほんとおかしくなりよったんですね。家内も、たまたま昨日かおとといにその話をしたら、もう2年間くらい寝るときダメやったっち言いよったもん。そんな話、いままで聞いてなかったです……。自分ももう、1年くらいは博多まで通勤するときに、(電車の座席に)座っただけで、涙がボロボロ出よったですもん。精神科にも相談しようと思って、ある知人から、どこどこ大学のだれだれ先生がいいとか聞いて電話を十何回かしたけど、繋がらんかったんですね。で、近くの精神科は、行ったことで事情が知れたら嫌やないですか。それで行けない。そんな状態がずーっと続いとったんです……」

 自宅のある小倉から博多までは約70kmの距離がある。当時、鉄道関連会社で新規店舗の立ち上げ全般の仕事を任されていた敏廣さんは、娘を殺された博多に仕事で向かわねばならないことが、苦痛で仕方なかったという。

「ほんときつかったですね。(事件発生時は)会社の合併があって、ものすごく忙しくなったときやったんです。だから、ほんとはすぐに辞めたかったんやけど、俺が辞めるわけにはいかんから、3年間だけは辛抱しようと。それで3年経って辞めたんです。やっぱね、当時の心情は自分でもわからんぐらいですよ。ほんと自分の命、落とすつもりでおったから。実際のところね。生き甲斐がなくなる……うん。仕事のやり甲斐がなくなる、生き甲斐がなくなる。ただ、どうしたらいいんやろうって思うだけなんですよね……」

 そうした苦痛に感じる出来事は、福岡地裁で05年6月に始まった裁判の審理中にもあったと、敏廣さんは語る。