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このように定子は、亡くなって1年近く経って、生前よりも強い影響力を放つようになった。道長にとって定子の死は、客観的には、長期的な政権構想のなかで〈幸い〉であったに違いないが、短期的には悩ましく、その存在は脅威を増した面もあったのである。

また、一条天皇は、別の意味で定子に執着し続けた。定子の父である道隆の四女、すなわち定子の末妹の御匣殿(みくしげどの)を寵愛するようになったのだ。

御匣殿は定子から敦康親王の養育を託されてはいたが、入内していたわけでもない。しかし、とにかく一条天皇の寵愛は彼女に向かった。面影に定子を見たのかもしれない。そこで道長は、敦康親王を御匣殿から引き離し、彰子に育てさせることにした。

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それでも一条の寵愛はやむことがなく、長保4年(1002)、御匣殿は懐妊した。むろん、道長は恐れをなしたことだろう。

約8年間亡霊に苦しめられた

一方、第28回で定子が死んだ際も、道長への恨みを隠さなかった伊周は、今度こそ立場を挽回するチャンスと思ったことだろう。皇子の誕生を期待して、妹の御匣殿を自宅に迎え入れた。しかし、彼女は急に体調を崩し、数日寝込んでから息を引き取ってしまった。

結局、道長はこうして、寛弘5年(1008)9月11日に彰子が敦成親王を出産するまで、定子の亡霊に苦しめられたのである。

その前年には、道長は彰子の懐妊を願うべく、険しい山道を登って、山岳修験道の聖地である金峯山(奈良県吉野町)に詣でた。『大鏡』によれば、その道中で伊周が不穏なことを企てているという情報があり、かなり警戒を強めたという。伊周の執念も、定子の亡霊の一種だといえよう。

伊周の執念は、じつは、産まれてきた敦成親王にも向かおうとしていたようだ。敦成が生まれた翌寛弘6年(1009)、伊周の母方の関係者が、道長、彰子、敦成を呪詛しようとしたとして逮捕され、伊周も参内を禁じられた。定子の亡霊は、敦成親王が生まれてなお、健在だったといえようか。

香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。