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実際、一帝二后が実現しておよそ2カ月を経た4月23日にも発病。続いて5月19日には、次兄の道兼の怨霊が道長に憑き、25日なると、今度は長兄の道隆の霊が乗り移ったという。後者については、行成の『権記』によれば、「伊周をもとの官職、官位に戻せば、道長の病も癒える」と、道隆が道長をとおして訴えたという。

まだ定子への「いじめ」を続行している最中にも、道長はそれに対する疚しさ、うしろめたさを感じ、体調を崩したり、定子の親である兄の怨霊が乗り移ったような言葉を発したりしたのかもしれない。

公家の間に広がる定子への同情

定子の死に衝撃を受けたのは、道長だけではなかった。定子の生前、公卿たちの多くは最高権力者たる道長に同調して定子を邪険にあつかった。それだけに、負い目を感じて、定子への同情を口にするようになったのである。

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定子がみずから出家したのだから仕方ないのだが、その結果、宮廷では一条天皇と事実上離縁しているものとみなされ、生前の定子を周囲は尼扱いした。その急先鋒が天皇の秘書官長である蔵人頭だった藤原行成だった。

道長が一帝二后を実現した際、ドラマでも描かれたように一条天皇を説得したのが行成で、その理屈は以下のものだった。后には皇室の神事を行う任務があるが、出家して仏道に帰依している定子は、神事に携わることができない。だから別に后が必要だ――。要は、定子をもっとも尼扱いしたのが行成だった。

ところが、定子が亡くなったその日、彼の日記『権記』には「長徳二年、事有りて出家、其の後還俗」と書かれている。しかし、彼女が正式に還俗したという記録はない。おそらく行成も、定子を尼扱いした疚しさから、還俗していたことにしたのだろう。

一条天皇の寵愛は定子の妹に

こうした空気は宮廷全体のものになった。たとえば、翌長保3年(1001)10月23日、内裏で庚申待(庚申の日に神仏を祀って徹夜する行事)が行われ、管弦が奏されたことに対して、皇后定子は国母なのに、その喪が明ける前にもう音曲とはなにごとか、という声が上がったという。これも行成が『権記』に記している。