――バルセロナで金メダルを取ってからわずか数日で「幸せ」が霞んでいくわけですね。ちなみに帰国当初、金メダルはどうしていたんですか。

「母が管理していた……と思います。バルセロナでもらって自分で持って帰ってきて日本で母に渡した……。多分そうだったと思います。その辺りのこと全然、記憶になくて。14歳だったのでどこに行くのも母と一緒でした。東京でテレビ局まわりもしたんですけど、すべて母がついてきて、私の持ち物を持っていたので、たぶんメダルもそうだったと」

岩崎さん ©文藝春秋 

〈表彰台で受け取った直後から金メダルについての記憶が薄いというのは興味深い。確かに14歳の少女がその重みを本当に実感するのはまだ先だった。そして皮肉なことに、そのきっかけとなったのは日常の崩壊だった。中学2年で「時の人」となったことで、自宅には中傷の電話がかかってきたこともあったという。〉

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私のせいなのかな

「今はそういうことはどこでもあることなんだ、よく思う人もいれば、嫌だなと思う人もいるということはわかるんですが、当時はなぜ自分が嫌なことをされたり、妬まれないといけないのか、何で私がこんな思いをしなきゃいけないんだろう、なんで家族まで巻き込まれないといけないんだろうとか、何で? 何で? とそればかり思ってしまって……。そこから2年間はずっとそういうことで悩んでいました」

 ――家族も巻き込んでというのは特に、同じく水泳をやっていた3歳上の姉・敬子さん、2歳下の妹・佐知子さんのことでしょうか。

「そうですね。特に姉は大変だったと思うんです。姉は勉強もできてスポーツもできて、性格的にはひとりで部屋に閉じこもって本を読んでるのが好きなタイプ。私は正反対で、昔から知っているコーチに言わせれば悪ガキでしたから。姉はよく私のことを八方美人と言っていて逆に私はお姉ちゃん空気読まないけど、すごいねって(笑)、尊敬していました。水泳ではジュニアオリンピックで優勝し、バルセロナ五輪の選考レースにも出るほどの選手だったので、私は姉がつくってくれた道を歩いていけた。姉の記録を塗り替えることだけを目標にやれたんです。それほどの選手なのにバルセロナの後は常に『岩崎恭子の姉』として見られるようになってしまって。結局、大学進学と同時に水泳をやめてしまいました。私がこんな状況になってなければお姉ちゃんも普通にもっといい成績をおさめて水泳を続けられたかもしれないのに、私のせいなのかな、きっとそうなんだろうなと。だからずっと気になっていたんです。ただ、当時の私は一方で『そんなの私のせいじゃない』という思いもあって。私も自分のことで精一杯だったので」

本記事の全文は「文藝春秋 電子版」に掲載されています(「岩崎恭子 14歳の金メダリストの『天国と地獄』」)。