しかし、準決勝では大谷の雰囲気がそれをさせなかった。「あまりに入り込んでる」(栗山)と感じたからだ。それでもさすがに決勝を前に何も伝えないわけにはいかない。目の前に現れた大谷を「ちょっと話がある」と呼び込んで、栗山はこう言った。

「準備、大丈夫か。ブルペン、レフトにあるけど……」

 栗山がそう言いかけると、大谷が遮った。

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「僕がやりますから、心配しないで下さい」

 そう言って立ち去ろうとする大谷に、栗山は「最後、行くからね」とだけ伝えた。

「ファイターズのときならともかく、あそこまでの選手になったら、もう自分のこと自分でわかるんだな、と思った。もし投げられないなら自分から言ってくる。だから試合中の準備もこちらからは何も指示していない。どうするのかなと思って、楽しみに見ていただけだよ(笑)」

©文藝春秋

「野球の神様って、すげえな」と感慨に浸った瞬間

 大谷がブルペンへ向かったのは5回が終わったときだった。その回、3打席目が回ってきて、しばらく打順は巡ってこない。

「アイツ、ど真ん中を堂々と歩いて行ったよね。裏動線なんて必要なかった」

 ベンチ裏ではなく、グラウンドに出てファウルゾーンの“ど真ん中”を歩いて大谷はブルペンに向かった。その後はブルペンとベンチを小走りに行ったり来たり……プロの世界でそんな光景は見たことがない。

 しかも、この試合のキャッチャーは大谷がまだ一度も組んだことがない中村悠平だった。試合はもちろん、ブルペンでも大谷の球を受けたことがなかったのだ。最後、キャッチャーをこれまで大谷を受けてきた甲斐拓也に代えることも栗山の頭を過ったが、試合の流れを変えるのも怖かった。

 日本は村上宗隆、岡本和真のホームランなどで3─1とアメリカを2点リードしていた。7回裏、内野安打で出塁した大谷は吉田正尚のサードゴロでニ塁へ滑り込む。そのままチェンジとなって8回表、ブルペンからダルビッシュ有が出てきた。ダルビッシュがマウンドへ足を踏み入れたまさにその瞬間、大谷がダグアウトを出る。ドリンクを飲みながら、ブルペンへと歩く。

 8回、ダルビッシュがカイル・シュワバーに一発を浴びて1点差となる。大谷はブルペンでのピッチングを続けていた。そして9回、大谷がブルペンから出た。泥だらけの野球小僧がマウンドに立つ。栗山は「これが大谷翔平だ」と思ったのだという。

「WBCでの翔平はこれがやりたかったんだろうなって……ピリピリした雰囲気の中でみんながひとつになって、自分のことなんてどうでもいいから勝とうぜ、という野球の原点を味わいたかったんだと思う。だって翔平、キラキラしてたもんね」

 打順は9番からだった。つまりすんなりツーアウトを取れば、最後は2番のマイク・トラウトとの対戦になる。なんというエンディングか……まるですべての出来事が逆算で組み立てられていたシナリオのように思えてくる。

「野球の神様って、すげえな」