繁盛したラングーンの翠香園も終わりを迎える。1945年4月にはラングーン近郊にイギリス軍部隊が迫ったからだ。恐慌状態に陥った木村兵太郎ビルマ方面軍司令官は、方面軍より上位の南方軍に無断でラングーンから空路脱出する。方面軍司令部ごとの敵前逃亡だった。

 この方面軍司令部の逃亡は、後勝にとっても寝耳に水だった。後はラングーンからモールメンへの軍需物資の輸送船を手配していたが、物資がラングーンに置き去りにされた事を後に知る。

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 その理由を聞いたところ、緊急軍需品を港に集め、いよいよ舟に積み込もうとしたとき、作戦課長命で舟を全部取り揚げられ、軍需品は放置したまま、方面軍司令部はモールメンへ撤退することになったというのである。

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 それでは、後方で集めた舟は何に使ったかと聞けば、作戦課長直轄の特殊部隊を乗せて撤退したという返事で、私がカレニン山系の山越えのとき、恥ずかしい思いで聞いた風聞の通りであった。 

出典: 後勝『ビルマ戦記』潮書房光人新社

「芸者や将校慰安所の女たちは、なじみの将校が看護婦にしたてて船にのせて逃がした」

「作戦課長直轄の特殊部隊」と聞いても意味が分からないだろう。後はボカして書いているが、1953年に出版された初版ではハッキリと書かれている。

 幾千の邦人は急に小銃を持たされてラングーンに残留され、また六百屯の緊急軍需品は一物も運び出すことなく、準備した舟艇には、偕行社に働いていた数十名の女子軍属、翠香園その他にいた百名近い慰安婦、偕行社の雑品等を乗せて、モールメンに遁走してしまつたではないか。 

出典:後勝『ビルマ戦記』日本出版協同(初版)

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 物資よりも慰安婦の輸送が優先されたのだ。戦闘に関係ない婦女子を優先して退避させたと弁護することも可能かもしれない。しかし、逃れる事のできた婦女子には明確に序列があった。「芸者や将校慰安所の女たちは、なじみの将校が看護婦にしたてて船にのせて逃がした」と読売新聞の斎藤申二記者は書いている(『秘録大東亜戦史 第3 改訂縮刷決定版』富士書苑)。

 兵や下士官向けの慰安所にいた慰安婦たちは置き去りにされていたのだ。司令部に近しい慰安婦を軍需品より優先して逃がしたとなれば、ビルマ方面軍は戦争よりも愛人を優先したと言われても仕方あるまい。

 上記の引用からも分かるように、後勝の『ビルマ戦記』は初版と新版で内容が異なっている。1953年に出版された初版では戦争から時間が経ってないせいか怒りも大きかったのか、特に物資輸送の件で告発的内容になっているのに対し、新版では記述がボカされている。軍時代からの人間関係など、様々な事情がそうさせたと思われるが、これに対して告発の価値が薄れたとする批判も存在した。