「あの家は、ちょっと。なんというか、ここらの田舎からしたら浮世離れしているというか、そんな感じの家かな」。2018年、5歳の娘を虐待死させた、父親の船戸雄大(当時33歳)と母親の優里(同25歳)。いったい2人はどんな人物で、なぜ出会ったのか? 高木瑞穂氏と、YouTubeを中心に活躍するドキュメンタリー班「日影のこえ」による新刊『事件の涙 犯罪加害者・被害者遺族の声なき声を拾い集めて』(鉄人社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/前編を読む)

我が子を虐待死に追いやった父親・船戸雄大(写真:筆者提供)

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高松のキャバクラで出会い結婚、上京

 1985年、岡山県で生まれた雄大は父親の仕事の関係で関東などに住んでいたこともあったが、小学校高学年で北海道札幌市に転居する。このとき、歳の離れた妹もいた。

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 中学校の同級生に話を聞いたところ、当時は特に暴力性が際立つようなことはなく、バスケットボールに夢中になっていたという。

「運動神経が良くて、活発な子でしたよ。ちょっと相手によって言葉遣いとか態度を変えるようなところはあったけど。子供なんてそういうところ誰でもあるでしょう。強い者に憧れて媚びるというか……」

 中学卒業後、道内でバスケットボールの強豪校として知られる公立高校に進学。一時はバスケ部に籍を置きレギュラーを勝ち取り全国大会への出場を目指していたが、練習についていけず志なかばで退部。現実を知り卑屈になったのか、ついには不良と付き合うように。が、高校を卒業し東京・八王子にキャンパスを置く帝京大学に進学すると、改めてバスケサークルに籍を置き青春時代を費やした。当時のサークルメンバーは言う。

「遊び半分で入っていた連中が多いなか、強豪のバスケ部出身だけあってやっぱり抜群に上手かったですよ。だんだんと本気のサークルになっていきましたけど、雄大はチームの中心でした」

 誰に聞いても雄大を悪く言う者はいない。みんなを引っ張っていく熱血漢。そんなイメージを持たれていた彼は、大学卒業後にシステム開発関連の会社に就職し、ほどなく三軒茶屋に、頻繁に姿を見せるようになる。のちに東が丘に引っ越しをする際に、近くの「三軒茶屋はいいところだ」と優里に語っていたように、雄大は雑多なカルチャーの入り交じる不思議なこの街を、いたく気に入っていた。前出のサークルメンバーは語る。

「三軒茶屋の話はよく聞いていました。業界人と知り合いができたとか自慢げに話していましたよ。でも雄大は酒がそんなに飲めないんですよ。人脈を作りに行っていたんですかね」この頃から、雄大は大麻に手を染めるなど遊びが派手になっていく。