地元ガイドの方の後に続き…
地元ガイドの方が案内しており、せっかくだから後ろのほうで聞いていればいいよと、優しい言葉をかけていただいた。ガイドされていたのは、三床山を愛する会の事務局長などを務める舘庄司さん(現在76歳)。
舘さんによると、約2000万年前の火山活動によって三床山は現在の姿になったと推測されている。山の中核部は凝灰石の岩盤で形成され、江戸時代から凝灰石の採掘がはじまり、地元の産業となったのだという。
淡い緑色がかった石は和田石と呼ばれ、柔らかく加工しやすい反面、風化しやすい特徴があった。主に建築用の基礎石や玄関石、石垣などに使用され、地場で消費されることが多かったそう。
昭和に入ると機械が導入され大量生産が始まったが、昭和30年頃をピークに採掘量は減少してゆく。コンクリート製品や輸入石にとって替わられ、建築工法の変更によって石そのものが使われなくなったためだ。需要は減少の一途をたどり、昭和42年、廃坑のやむなきに至った。
また、戦時中には幻の地下軍需工場計画もあったという。“零戦”の次期戦闘機“烈風”のエンジンをこの石切場で量産しようと、部品を持ち込み人員も手配していたが、実際に稼働する直前に終戦を迎えた。
なお、現在、福井県に空港はないが、戦時中に幻といわれた飛行場が、隣接する越前市に存在した。たった一機だけが降り立ち、終戦のため廃止された海軍の愛宕航空基地だ。舘さんは、この海軍航空基地とも関連があったのではないかという。石切場跡だけでも凄い場所なのに、このような計画があったとは、さらに驚きだ。
山奥で偶然にも多くの人と出会い、そしてこのような貴重な話を聞くことができるとは、なんて幸運なんだろう。すると、舘さんが坑道を塞いでいる柵に近づいていく。
いやまさか、そんなことがあるのか、でもひょっとして……。そう思っていると、いとも簡単に開錠され、柵が開いた。これには喜びというか、驚きを禁じ得なかった。舘さんの「ついてきて下さい」との言葉に、ウォーキングの一行に続いて、私も入坑させていただいた。
先ほどまで憧れの眼差しで眺めていた柵の内部へ、ワクワクしながら突入する。