『武士の家計簿』を書いてから十年ちかく経つ。それからこの国も、いや、この国をとりまく環境がずいぶん変わった。ここにあるのは、いまは無名となって、泉下に苔むした三人の生涯である。わたくしが、いまどうしても記しておきたい三人のことを書いた。この国のありようをみるにつけ、千の理屈をいうよりも、先人の生きざまをそのまま辿(たど)ったほうがよい、と感じることが多くなっていた。どんな先人をとりあげて、何を語ればよいのか、自問自答をくりかえしていた。

 そんなある日、わたしのもとに一通の手紙が舞い込んだ。差出人は三橋正穎(みはししょうえい)となっていたが、心あたりはなかった。こんなことが書いてあった。

「自分は、東北は仙台のちかく『吉岡』というところに住んでいる者である。先生の『武士の家計簿』を読み映画もみた。実は、自分の住む吉岡には、こんな話が伝わっている。昔、吉岡は貧しい町であった。藩の助けもない。民家が潰れはじめた。このままでは滅ぶと絶望した住人が自ら動き、金を藩に貸し付けて千両の福祉基金をつくり、基金の利子を、全住民に配る仕組みを考えついた。九人の篤志家が身売り覚悟で千両をこしらえ、藩と交渉した。藩はあれこれいって金を多めに吸い取ろうとしたが、なんとか基金はできた。この九人の篤志家は見上げた人たちで、基金ができた後、藩から褒美の金をもらっても、それさえ住民にすべて配ってしまった。おかげで町は江戸時代を通じて人口も減らず、今に至っている。涙なくしては語れない話である。吉田勝吉という人がこの話を調べて『国恩記覚』という資料集にまとめている。磯田先生に頼みたい。どうかこの話を本に書いて、後世につたえてくれないか」

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 その文面は、ほんとうに実のこもったもので、わたしは心を打たれた。三橋さんのいう吉岡の九人のことを調べずにはいられなくなり、あちこち走り回って史料をあつめた。調べてみると驚いたことに、この九人は武士が百姓から米を獲(うば)うだけの世の中に疑問を抱き、逆に、百姓が武士から金を取るあべこべの仕組みを作ろうとしていた。この九人については吉田勝吉氏の調査のほか、詳細な古文書の記録が残されていることもわかった。やがて忘れ去られるであろう九人のことを書き記さねばと思った一人の僧侶がこつこつと書きためた記録であった。読んで、泣いた。古文書を読みながら涙がでてくることなど、これまでなかったが、とめどもなかった。それから、というもの、わたしは憑かれたように、この九人の話を書きはじめた。

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