本書を書きながら、わたしは本心をいうと、安堵をおぼえた。若いころは、お金がなければ、それなりに偉くなろうと試みなければ、ちゃんと暮らせないのではないか、と不安にとりつかれやすいものである。しかし、ここでとりあげた三人とつきあうにつけ、なるほど、このように過激な清浄を生きても人間は幸せでいられるのか、と思い、ほっとした。穀田屋十三郎たち、中根東里、大田垣蓮月……この江戸人たちがたどりついた哲学は奥深い。彼らの生きざまを「清らかすぎて」などとは思わなかった。時折、したり顔に、「あの人は清濁あわせ呑むところがあって、人物が大きかった」などという人がいる。それは、はっきりまちがっていると、わたしは思う。少なくとも子どもには、ちがうと教えたい。ほんとうに大きな人間というのは、世間的に偉くならずとも金を儲けずとも、ほんの少しでもいい、濁ったものを清らかなほうにかえる浄化の力を宿らせた人である。この国の歴史のなかで、わたしは、そういう大きな人間をたしかに目撃した。その確信をもって、わたしは、この本を書いた。
本書を書くための取材で、東日本大震災で被害をうけた吉岡の町に入ったとき、むかえてくれたのは、吉岡の九人の顕彰会のみなさんであった。そのなかに吉田勝吉氏の姿があるかと思ったがみえなかった。思わず、きくと、一座の顔が曇り、「ご体調がよくないんです」といわれた。吉田さんは九人の顕彰のため、生涯かけて資料を集めてこられたのだという。
穀田屋十三郎のご子孫にあたる高平和典さんのお宅にもうかがった。穀田屋だけは、いまも吉岡にあって酒屋の営みをつづけておられる。吉岡の方々は口々に、先人の偉大さを語ってくれたが、ご子孫であるはずの、高平さんのご家族はただ微笑むばかりであった。あまりに語られないものだから、きいてみると、「いえ。昔、先祖が偉いことをしたなどというてはならぬと言われてきたものですから」と恥ずかしそうにいわれた。目を転じると、長押(なげし)のうえには「誠意」と大書された明治初年とおぼしき扁額がかかっていた。その高平さんも、ご老人にたのまれて、先祖の顕彰碑ができたときに、一度だけ、「感謝の言葉」をよせたことがある。遠慮深く、最後に、このように書かれていた。「平成不況の折、先人の知恵等をお借りして、生き抜いていく方法はないものかと思う今日この頃でございます」。
この本を書きあげ、このあとがきを半分ほど書きあげたところで、吉岡の大和町教育委員会から一通のメールがきた。「吉田勝吉さんが亡くなった」という哀しいしらせであった。一生かけて吉岡の九人の資料をあつめられた吉田さんは、病床で、わたしが書く穀田屋十三郎の連載をうれしそうに読んでおられた、という。瞑目するほかなかった。本書を吉田さんの霊前に捧げたい。あなたの蒐(あつ)めた史料がなければ、わたしはこの一文を書くことはできませんでした。一度もお会いすることはありませんでしたが、史家として、これほど冥利につきる仕事をさせていただいたことはありません。ありがとう。
平成二十四年九月二十日 葬儀の日に
筆者
(「あとがき」より)