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「そうか、やっぱりそんなにすごいのか」

 柳井正は改めて感心した様子で、そうつぶやいたという。

2009年にプロ転向「魅せながら勝つ選手に」

 2009年4月13日、25歳だった国枝は、東京都内で記者会見を開いた。テレビカメラ8台、50人以上の報道陣が集まる中、日本人の車いすテニス選手として、初となるプロ転向を表明した。

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「障害がある子どもたちが将来、車いすテニスの選手になりたいと思うように、自分のレベルを上げて、魅せながら勝つ選手になれるように努力したい」

 2008年、健常者の男子テニスで最も賞金を稼いだのはウィンブルドン選手権初優勝などを成し遂げたラファエル・ナダル(スペイン)の677万3773ドル(当時のレートで約6億5700万円)。一方、車いすテニスでは、年間で稼げるのは最高でも500万円を超える程度だった。

 しかも、前年に起きたリーマンショックに端を発する金融危機で、日本の企業もアスリート支援などスポーツへの投資に二の足を踏む経済状況でもあった。

 それでも、国枝は力強く語った。

「それ以上に、この世界でやっていきたいという気持ちが上回った」

 引退した後、国枝と当時の記者会見の映像を確認した。

「生意気そうな顔をしていますね。あのころ。いい意味で、野心があるような感じはしますね。成功してやろう、という気持ちにすごくあふれてましたね」

 一歩踏み出す勇気を持っていた、25歳の自分を褒めるような口調だった。

©東川哲也(朝日新聞出版 写真映像部)

競技環境が安定し、力強さも増していった

 2009年8月にユニクロと国枝との所属契約が発表された際のプレスリリースには、こう記されていた。

世界のトッププレーヤーとして戦う国枝選手は、世界No.1のグローバルアパレルリテーラーを目指すユニクロにとって、真に共感できる存在です。今後、ユニクロは国枝選手の競技にチャレンジ姿勢に刺激を受けながら、世界を舞台に更なる高みをめざしてまいります。

 国枝は引退後も、ロジャー・フェデラー、錦織圭らとともにユニクロの「グローバルブランドアンバサダー」として、関係が続く。

 ユニクロとの所属契約をはじめ、複数のスポンサーがついたことで国枝の競技環境は安定し、力強さも増していった。

 2009年から2010年の4大大会のうち、シングルス部門がまだなかったウィンブルドン選手権をのぞく3つの大会は、この2年間、すべて優勝した。

 2007年11月の世界マスターズ選手権の準決勝で敗れてから、2010年11月の同じ大会の準決勝で敗れるまで、107連勝という大記録も打ち立てた。