『病葉草紙』(京極夏彦 著)文藝春秋

 今年、私が直木賞を受賞した際、お祝いにと(実際は私がおねだりしたのだが)、京極夏彦氏から氏のトレードマークとも言える漆黒の指ぬきグローブをいただいた。この原稿はそのグローブをはめながら書いている。酷暑ゆえに革の内側にともすれば湿気がこもり、汗ばむ。私はこれを「神の蒸れ」と呼んでいる。

 本題である。

 本書にて3カ月連続の小説刊行。著者の鬼神の如き勢いそのままに、本書ではリズムのよい会話の応酬が全編にわたって繰り広げられている。

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 会話のぬしは八軒長屋に住む、癖のある男女たち。物語の主人公であり、長屋の大家の息子である藤介が様子をうかがいにくるたび、長屋の住人たちが威勢よく江戸っ子会話をふっかけ、それが端緒となって、あれよあれよという間に事件が発生する。

 ときに長屋の店子の健康問題、ときに複数の死人が出る物騒な話まで、それらはことごとく藤介の手に余るものばかり。始末のため、長屋の奥に住む、超絶変わり者の本草学者・久瀬棠庵(とうあん)のもとへと持ちこまれることになる。

 この棠庵が動かない。

 年がら年中、部屋に引きこもり、蝋燭を灯し、常に同じ姿勢で書物を読んだり、書き物をしたりしている。年寄りかと思えば、実はまだ20歳を少し超えた程度。長屋の奥で、人知れず知の小宇宙を築き上げている謎の若者が、長屋発の奇妙な事件を解決へと導く。

 その道筋には常に「虫」が介在する。事件のあらましを聞いた彼は、

「それは、虫ですね」

 その原因になっているものを不思議と見抜いてしまう。人の臓腑に宿し、悪さをする「虫」が引き起こしたものだと書物をはらりとめくり、ズバリ見定める。

 しかし、見定めておいて、「嘘ですよ」とあっさり前言を翻しもする。

 そこから先、読者はまるで煙に巻かれるが如く、寄せては返す言葉の魔法によって、京極夏彦の世界に取りこまれてしまうのだ。すべては会話のやり取りのなかで、これといった境界もなく事件が勃発し、同じく境界もなく事件は解決していく。その間、派手な取っ組み合いや追いかけ合いがあるわけでもなく、棠庵に至っては一歩も長屋から出ぬまま、のらりくらりと話が進行していく。

「あんたねえ、虫虫虫虫、何でもかんでも虫じゃないかね」

 藤介が思わず文句を口にするほど、棠庵は「虫」への知識と、本草学者としての鋭い嗅覚を武器に事件の核心へと迫る。しかし終盤、泰然自若を貫くかに見えた彼が、どうしたって長屋から動くしかない状況に追い詰められる。ついに長屋の外に出るのか棠庵! と固唾を呑んで物語の行方を見守る読者の目の前で起こる、まさかまさかの大逆転劇。

 何が起きるのか? それは読んでのお楽しみでございます。

きょうごくなつひこ/1963年生まれ。北海道小樽市出身。94年『姑獲鳥の夏』でデビュー。2004年『後巷説百物語』で直木賞、11年『西巷説百物語』で柴田錬三郎賞、16年遠野文化賞、19年埼玉文化賞、22年『遠巷説百物語』で吉川英治文学賞を受賞。
 

まきめまなぶ/1976年大阪府生まれ。2006年、『鴨川ホルモー』でデビュー。24年『八月の御所グラウンド』で直木賞受賞。