漫才コンビ・爆笑問題の所属事務所として立ち上げられた「タイタン」。事務所が成長軌道に乗った1990年代後半、プライベートでは2度にわたる不妊治療に挑戦していたことを、太田光代社長が明かした

「太田と一緒になった当初、私は子供を作ることはほとんど考えていませんでした。もともと子供がさほど好きではなく、自分の子を育てたいという強い気持ちもなかったのです。仮に出産したとしても、上手く育てていく自信がありませんでした」

太田光代さん ©文藝春秋

 だが、30歳を過ぎる頃に身内からのプレッシャーが強くなったという。「いつ孫の顔を見られるのか」と直接、光代氏に声をかけてきたのは義父(夫・太田光の父)だった。

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「今こうやって振り返ると、夫婦間のデリケートな話題にズケズケと入り込んでくる義父が批判されそうですが、当時はこれが当たり前の価値観。もちろん義父にまったく悪気はありません」

「まあまずは普通に子作りをしてみようかと考えるようになりました」

 しかし、その結果は思うようなものではなかった。

疲労困憊のまま眠りこけてしまうことも

「排卵のタイミングは完璧にあっているはずなのに、まったく子供ができない。その頃は夫婦ともに多忙だったので、私が夜まで仕事が続いて遅くなることもあれば、太田は太田で収録が長引いて疲労困憊のまま眠りこけてしまうこともたびたび」

 そこで光代氏は不妊治療への挑戦を決意する。

「当時、不妊治療は世間でもマイナーな選択肢でした。1990年代後半はまだ全額自己負担。治療費もかなりの高額でした」

出会った頃の二人(タイタン提供)

 仕事の時間を確保するため、朝早くから病院に通った。この治療が当時30代半ばだった光代氏にとって耐え難い苦痛だったという。

「ホルモン剤を服用しているときは電車で一駅移動するのも一苦労でした。特急なんかに乗ったら途中下車もできないから顔面蒼白になって、しゃがみ込んでしまったり。そのときはそれまで何も気にしなかった食べ物や洗剤の匂いが気になり気分が悪くなるのです」