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《1本の電話が自爆した彼らを救った》太田光代が明かす爆笑問題の黒歴史「掟破りの独立騒動」

2024/01/11
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爆笑問題・太田光の妻であり、タレント事務所「タイタン」の社長である太田光代氏が30年前の“忘れられない日”を語った。日大芸術学部を中退した太田と田中裕二の2人が88年に結成した爆笑問題は、当初、太田プロダクションに所属(光代氏もタレントとして所属)。当時の太田プロは、温厚な人柄で知られる磯野勉社長(当時)と周囲に「副社(ふくしゃ)」と呼ばれる副社長の妻・泰子氏が切り盛りしていた。社長と副社の了承のもと、爆笑問題は「ツービートの再来」「たけしの再来」というキャッチフレーズで売り出されることになったのだが……。(聞き手・構成=石戸 諭・ノンフィクションライター)

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太田に甘い言葉を囁いた男

太田プロ所属時の爆笑問題 ©タイタン

(「ツービートの再来」「たけしの再来」は)すごいキャッチフレーズですが、そう名付けることでプロダクションとして爆笑問題への期待を業界の方々に伝えやすくするためだったのでしょう。それも、ツービートが所属していた事務所だから言えたこと。関係のない事務所では付けられないキャッチフレーズでした。

 太田も憧れのツービートやたけしさんの名前を引き合いに出されて嬉しそうでしたが、問題は彼がそれを本気にしてしまったこと。

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 爆笑問題はデビュー間もない89年の段階で引く手数多になっていました。今だから言えますが、テレビ各局では彼らを中心とした新番組が一斉に企画されていたんです。

 ただ、あの頃の爆笑問題はトークで目立つというタイプではありませんでした。ネタを披露すると必ず高評価でしたが、トークになると他の芸人の後ろに隠れて引っ込んでしまう。番組の演出でこの弱点をどうカバーするかについて、事務所関係者から番組スタッフまでが一緒になって、懸命に考えていたようです。

 にもかかわらず、そうした提案に太田は「そんなことはやりたくない」「自分がやりたいのはこんなことじゃない」なんて偉そうに反抗していた。本人も後年、「面白ければ何とかなると思っていたし、業界のパワーバランスなんてわからなかった」と述べています。が、要は「たけしの再来」と言われて天狗になっていたんです。

 その太田に甘い言葉を囁いた男がいました。当時の担当マネジャー、S氏です。爆笑問題を引き抜く形で新事務所設立を画策し、「太田君、やりたいことが出来ていないなら僕が立ち上げる新しい事務所に移って自由にやればいい。君たちは天才だ。僕も一緒に夢を見させてくれ」なんて話していたそうです。

 じつは、私も彼の画策には気付いていました。S氏がテレビ局の関係者に独立の構想を語っているのを、偶然聞いてしまったんです。すでに私は太田と交際していたわけですが、仕事の後の車中で、S氏はこう言うのです。

「さっきの件、太田くんに声をかけたら来てくれるかな?」

「絶対にやめてください。だって爆笑問題は事務所のイチ押しですよ。そんなことをしたら大変なことになるのはわかっていますよね?」

 私はS氏に言いましたが、彼はどこ吹く風という顔つきでした。

太田光代氏 ©タイタン

誰にも話せない「移籍と結婚」

 事が大きく動いたのは、翌90年です。私は89年4月から、蓮舫さんや岡本夏生さんらと一緒に、テレビ東京の深夜番組『ひょっこり漂流島』に出演することになり、海外ロケや収録で家を空ける時間が増えていました。ある日、仕事を終えてグアム島から家に帰ると太田が「この前、Sさんがウチに来たよ」と言うんです。「これはやられた」と思いました。私がいないうちに、S氏は太田を口説きに来たのです。

 それまで私は太田にこの話は一切していませんでした。私にしてみれば、事務所でもあまり関わりのないS氏の、個人的な問題です。何も聞いていなかったことにしようと決めていましたし、まさか家に来るとは思っていませんでした。なにより、太田は乗らないだろう、という思いもありました。

 ところが、どういうわけか彼は「イエス」と言ってしまったんです。田中は田中で太田が決めたことに付いていくという話になっていて、あっという間に独立決定ということになってしまった。