1月9日、「舟唄」や「雨の慕情」などのヒット曲で知られる演歌歌手の八代亜紀さんが2023年12月30日に亡くなったと所属事務所が発表した。享年73。同年9月に膠原病の一種であり指定難病である抗 MDA5 抗体陽性皮膚筋炎と急速進行性間質性肺炎を発症し、療養を続けていた。葬儀は故人の遺志により事務所スタッフのみで1月8日に執り行ったという。
亡くなる9カ月前、2023年3月30日に行われた八代さんへのインタビュー「トラック野郎に愛されて」を公開する。(インタビュー・構成 真保みゆき・音楽ライター)
自分の声にコンプレックスが
レコード・デビューして今年で53年目。およそ半世紀にわたって「演歌の女王」の座をほしいままにしてきた八代亜紀だが、近年の活動ぶりはちょっと意外なくらい軽やかだ。東日本大震災の翌年、2012年には初のジャズ・アルバムを発表。以来、演歌とジャズの両輪で歌うようになったかと思えば、2020年には動画配信チャンネルまで開設。時代の動向に、ごく自然に照準を合わせている。コロナ禍の影響で本来なら50周年という「節目」となるはずだった2020年に活動を抑制せざるを得なかったが、ご本人はあくまでも天真爛漫。大御所らしからぬ可愛らしさが、鮮やかな記憶力の端々からのぞく——。
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何十年経っても昔の記憶が鮮やかなのは、絵を描くのが好きだったことと関係しているのかもしれません。子供の頃から描いていましたから、歌よりも先ですね。画家を志していたことのある父にくっついて、(故郷である熊本県の)球磨川にスケッチに出掛けると、父が「見てごらん、アキ。もうすぐ汽車が来るよ」って。鉄橋のトンネルを見ていると、SL列車がブォーッと煙を吐きながら球磨川を渡っていく。父の言葉とともに、鮮明に覚えているんです。
当時は本当に引っ込み思案でね。浪曲が好きで自分でも歌っていた父の影響で、親戚の人が来ると私もよく歌わされたんだけど、それはお母さんがご褒美に10円くれたから(笑)。でなければ歌えないくらい人見知りでした。自分の声も好きじゃなかった。これも父譲りなんですけど、子供の頃からハスキーだったの。小学校の音楽の授業で、先生から「そんなませた声で歌うものじゃない」と言われたりして、子供心に自分の声にコンプレックスがありました。
振り出しは「バスガイド」
そんな私が12歳で「歌手になりたい」と心に決めたのは、ひとえにお父さんを助けたいと思ったから。その頃、父は運送会社を立ち上げたばかり。資金繰りに苦労しては、月末になると悲しそうな顔をしているのを目の当たりにしていました。父のことが大好きだったし、手に職をつけるというか、とにかく早くお金を稼がなければと子供なりに一所懸命考えたんです。
小学校5年生の時、父が買ってきたジュリー・ロンドンのLPの影響も大きかった。浪曲オンリーだったはずの父が、なんでジャズ歌手のレコードを買ってきたのか、今でも不思議なんですけど、彼女の低い声もジャケットで着ているドレスも素敵でした。聞けば、「ジャズ歌手というのは綺麗なドレスを着て、クラブで歌うものなんだよ」って。「これだ!」と思いました。
中学を卒業して、まず地元の観光バス会社に就職。バスガイドの道に進んだのも15歳の子供なりの青写真があって、「クラブシンガーになりたい」なんて言おうものなら、反対されるのは目に見えていたわけ。下手すれば家から出してもらえなくなる。でもバスガイドさんなら人気の高い仕事だったし、父も反対しづらかった。しかも観光案内しなきゃならないから、人前でしゃべる訓練にもなる。一石二鳥だなと(笑)。子供なりの知恵ですね。
ところが実際バスに乗ってみると本当に大変。台本を暗記して何度も研修を重ねていたのに、いざ本番となると全然喋れないの。また、初めて乗せたのが大学生のグループだったのも悪かった。「待ってました、アキちゃん!」って、ワーワーピーピー大騒ぎ。運転手さんからは「とにかく喋れ」って叱られて、それでも喋れなくてバスを降りて声を出して泣きました。
見かねた先輩のバスガイドさんたちが、「アキちゃん、本当は歌いたいんでしょ。だったらここで歌ってみたら」って。熊本県で一、二を争う名店だった「キャバレーニュー白馬」に連れていってくれたんです。お店のお姉さんがドレスを貸してくれて、ちょこっとだけ口紅を差して。
スタンドマイクに向かって歌い出したら、エコーに乗って自分のこの声がフロアいっぱいにふわ~っと拡がるじゃないですか。お客さんたち全員が立ち上がって踊り始めた。その瞬間、「なんていい声なんだろう」って(笑)。それまで好きじゃなかったハスキーな自分の声を、いきなり好きになってしまった。もう駄目でしたね。「やっぱり私は歌手になる!」とあらためて心を決めました。3日間出演した時点で父にバレたのは、大いなる誤算でしたけど(笑)。
「なんして言わんとか!」
たまたま「白馬」に飲みに来ていた父の会社の従業員さんから「娘さんがキャバレーで歌ってます」と知らされて、当然父は激怒。「なぜそんな不良になった。理由を言え!」って。でも答えられなかった。お父さんにもプライドがあるから。「助けたかった」なんて答えようものなら、「娘が要らん心配なんぞせんでよか」って、よけい怒るに決まってる。九州男児。熊本で言うところの「肥後もっこす」ですからね。
黙って下を向いていると、涙がポタポタッと畳に落ちる音がするんです。業を煮やした父が、「なんして言わんとか!」って柱時計をはずして投げつけてきて……。もちろん当たらないように、わざと方向を斜めにして、でしたけど。「このうちに不良は要らん!」と勘当を言い渡されたので、そのまま上京。母の手引きで東京に住んでいた従兄弟のアパートにとりあえず居候させてもらって、歌手修行を始めたんです。
15歳で上京してからレコード・デビューするまで6年。4枚目のシングル「なみだ恋」がヒットしたのがさらに2年後の1973年です。本当に色々なことがありました。
上京当初は音楽学校に通っていたんですけど学費が払えなくなって、まずは新宿の美人喫茶の専属歌手として働きました。キレイな女の子がウェイトレスをしているのが売りの、そんなお店が当時の新宿にはあったんです。同じ頃、たまたま受けたオーディションに合格して、いっときグループサウンズのボーカリストをやっていたこともあるんですよ。グループの名前は内緒(笑)。渋谷のキャバレーだったり横浜の遊園地だったり、営業活動をたくさんやりました。売れない歌手やバンドの境遇って、本当に厳しいんですよね。キャバレーでもゲスト扱いだと独立した楽屋がないから男も女も一緒でしょ。着替えも満足にできない。遊園地での営業に至っては楽屋自体がないんです。
その時にもレコード・デビューの話がなくはなかったんですが、「レコーディングさせてやるから200万用意しろ」と。そんな詐欺まがいなことを言うレコード会社が当時はあったんです。のちに訴えられて潰れましたけど。そうまでしてレコード・デビューする気は、私にはなかった。