五木ひろしとの「五八戦争」
そのうち銀座のクラブからスカウトされて、月20万円の月給をいただけるようになった。18歳でその待遇でしょ。ママも優しかったし、お店のお客さんたちにもモテてたからもうルンルンで。レコード・デビューがまた遠のいた。その頃、母が月1回様子を見に上京してきてね。父に「アキ、頑張っているみたい」と伝えると、「違う。アキは銀座でルンルンしてる」って。なんでわかったんだろう? それでも両親の心配と苦労はわかっていたので、仕送りは欠かさずしていました。
そんな銀座のクラブ時代、同じお店で歌っていたのが五木ひろしさん。当時の芸名は「三谷謙」でした。ケンちゃん、ギターがうまくてね。彼がギターを弾いて、私が歌うこともよくありました。「ケンちゃん、うまいね」。「アキちゃんこそ」。そう言い合う間柄。歌ったのは、内山田洋とクール・ファイブの「噂の女」とかヒデとロザンナの「愛は傷つきやすく」、矢吹健の「うしろ姿」とかね。お客さんにリクエストされたこともあるけど、いわゆる流行歌ですね。まだ演歌が大流行する前の時代でした。
ケンちゃんとはもっぱら歌の話ばかりしてましたね。お互いに「こういう歌が合うんじゃない?」とアドバイスしたり、リクエストし合ったり。後年、2人して大ヒット曲を出した時、五木の「五」と八代の「八」をかけて「五八(ゴッパチ)戦争」なんて言われるようになるなんて、当時は夢にも思わなかった。
当時の思い出を五木さんと語り合う機会が、つい先日あったんです。私が司会を担当しているBSの番組(BS11『八代亜紀いい歌いい話』)に、五木さんがゲスト出演してくれて。ギターとリズムボックス持参で、銀座のクラブ時代の共演ステージを再現しました。五十数年目にして初めての試みになります。楽しかったし、何より懐かしかった。
「五八戦争」に関して言うと、当人以上にレコード会社がピリピリしていた事情があったんです。1980年だったから、70年代に始まった歌謡曲全盛時代のど真ん中。誰がレコード大賞を獲ってもおかしくない時代だった。そんな中、五木さんの「ふたりの夜明け」と私の「雨の慕情」が激突となると、レコード会社としてはヒートアップしますよね。レコード大賞自体、当時は大変な権威だったから、獲ると獲らないとでは大違いだった。
結局あの年は、日本レコード大賞も日本歌謡大賞も「雨の慕情」が獲って。おまけに『紅白歌合戦』の大トリまで私に決まった。当時『紅白』の司会をされていた黒柳徹子さんに聞いて私もビックリしたんですけど、あの年だけボードを回して矢を当てる、ダーツ方式で大トリを決めたんです。NHKも決めかねたんでしょうね。その結果ああなったので、ケンちゃんも先日の番組収録の時、「あの時は自分に運がなかった」と言ってました。
今でこそ笑い話ですけど、レコ大が決まった時、私のほうからケンちゃんに声をかけに行ったんです。「(レコ大が「雨の慕情」に決まって)ありがとう。ごめんね。ありがとう」って。彼はムスッとしてたけどね(笑)。「行けよ」って言ってた。まあ、仕方ないですよね、レコード業界あげての「戦争」だったから。この間の収録では、ケンちゃんも「あの時は俺の全敗だった」って。「八」の圧勝だったと(笑)。四十数年かけて笑い話になるんだから、おもしろいものです。
それくらい歌謡曲が大全盛だった。あの頃の『紅白』と言えば、視聴率が80パーセント。日本中、ほとんどのお茶の間が、大みそかの晩に釘づけだった。そんな時代に大トリをとらせていただいたんですから、歌手として最高の名誉だったと自負しています。レコ大が終わって『紅白』会場のNHKホールに移動する時、白バイとパトカーに先導されましたから。頭上にはヘリコプターが飛んでいて、「何分にどこそこの信号を通過しました」って。あれは本当にすごかった。歌手として本当に幸せな体験でした。
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本記事の全文は「文藝春秋 電子版」に掲載されています。
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