ナチスが「断種」を推進
1933年、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)を率いるアドルフ・ヒトラーが首相となり、ナチス政権が発足。ヒトラーは全権委任法を可決させて、立法権を掌握すると、「遺伝的な疾患をもつ子孫を予防する法律」を成立させた。いわゆる断種法である。
しかもこの断種法は、本人の同意なしに国が強制的に不妊手術を行うことができるというものだった。プロイセン州の断種法ではあくまでも「本人の同意」を条件としていたが、それをとっぱらったのだ。優生政策にとっては理想的な法律だった。フェアシュアーはヒトラーを「優生学を国家の主要原則とした初の政治家」と称賛した。
ナチスは優生学の知識をもつフェアシュアーを必要としており、彼を重用した。フランクフルト大学に新設した遺伝病理学研究所の所長に就かせ、ここで国家政策遂行のための研究をさせた。
フェアシュアーはここでまず、フランクフルト市民の半分にあたる25万人の遺伝情報を集めた。遺伝情報から断種すべき人々を炙り出そうとしたのである。
一方、ナチスの優性政策も進んでいった。1935年、遺伝的疾患の疑いがある者は婚姻そのものを禁ずる「婚姻健康法」が成立し、結婚するためには遺伝的疾患がないかどうかをみる診断をうけ「婚姻適合証明書」の発行をうけることが義務づけられた。
遺伝的に問題があると判断された場合には、ナチスの「優生裁判所」が断種を行うかどうかの判決を10分ほどでくだす。この裁判にはフェアシュアーも直接関わっている。そのときの裁判記録として次のようなものが残されている。
妊娠6か月の30歳の女性の例だ。彼女は結婚の申請に来ただけだったが、裁判所に送られ、そこでドイツやフランスの首都を尋ねても答えられず、字を読むこともできなかった。すると「知的障害」と診断され、すぐに中絶して断種すべきという判決がくだされた。
あまりにも非科学的な判決である。しかし、このような事例はけして特殊なものではなかった。
結局、ドイツでは1945年までに約40万人が断種された。ただ、これはドイツに限ったことではなく、世界的に行われていたことだ。アメリカでは1958年までに6万人が断種されている。日本では1940年に国民優生法、1948年に優生保護法が施行され、1996年に母体保護法が改正されるまで断種手術が行われていた。