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自害する前、秀次は小姓の山本主殿、山田三十郎、不破万作に、貴重な脇差を手渡した。彼らはいずれも10代で、美少年だったと伝えられる。3人は主君に先んじて次々と腹を切っていった。4番目には、秀次に目をかけられていた東福寺の隆西堂(虎岩玄隆)が、秀次があの世で迷わぬよう腹を切った。

驚くべきは、その4人すべての首を、見事に秀次自身が切り落としていったことである。これを介錯(かいしゃく)というが、すぐに死ねない切腹の苦痛を和らげるのがその目的だった。

作法が確立し、流れ作業のように切腹した

かつては、腹を割いて臓物をばらまいたあと、みずから刀を口にくわえて命を絶ったり、首を切るなどして死んだが、刑罰としての切腹は介錯がつくのが通例となった。

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また、腸を引き出す行為はむしろ敬遠されるようになった。いずれにせよ、5番目に秀次は見事に腹を切り、介錯を受けて果てている。

江戸時代になると、切腹の作法がしっかりと確立してくる。切腹前の潔斎(けっさい)。公儀への届け出。当日の準備や服装。切腹に用いる短刀の寸法。具体的な切腹の所作。介錯の作法。検死の方法。こうした細かい取り決めごとに則り、淡々と流れ作業のように切腹が進んでいくのは、おそらく世界的にも異例だと思われる。

また、腹に刃を突き立てる前に介錯を受けることも珍しくなくなる。元禄時代に吉良上野介を討った赤穂浪士たちも、この方法で亡くなったようだ。ただ、間(はざま)新六郎だけは本当に腹を割いたので、介錯人があわてて首を落とした。

けれども、必ずしも腹を割く前に介錯するのが主流となったわけではない。実際に割腹の例は記録に多く残る。

「殉死すべき」という寵臣への圧力

いっぽうで、扇子腹も見られるようにもなる。短刀の代わりに扇子を三方に載せ、その扇子に手を伸ばした瞬間、介錯人が首を落とすという切腹方法だ。切腹者が子どもや病人、あるいは臆病だったり、刃物を持たせると危険な場合に行われた。