家で死にたいと言う父親と、その介護をする母親の姿を、息子が撮り続けた。ひとりの人間の死をありのままに、そしてあますところなく映し出す作品に、ジャーナリスト・相澤冬樹が覚えた衝撃。

 

 ◆◆◆

 死期が迫ったお父さんの手を取って、お母さんが思いがけず唄い出した。

ADVERTISEMENT

「一年生になった~ら~」

 小学校の先生だったお父さん。亡くなる時も耳は最後まで聞こえているという。お母さんの歌声もきっと届いただろう。そんな両親の姿をカメラは撮り続けた。

カメラを通して父の死とじっくり向き合う

『東京干潟』『たまねこ、たまびと』などのドキュメンタリー映画で知られる村上浩康監督(58=撮影当時、以下同)。父の壮(さこう)さん(91)は末期がんで、入院先でもう治療の道がないと診断された。母の幸子さん(86)は壮さんの意向に沿い自宅での看取りを決意。在宅ケアサービスを受けながらとはいえ老々介護の負担は重い。村上監督は東京から仙台の両親の元に通って手助けをすることになる。介護のストレスがたまる中、前向きに両親をサポートする自分ならではの方法はないだろうか? そう考えて思いついたという。

村上浩康

「この機会に看取りの過程をできるだけ綿密に撮影してみよう。カメラを通して人の死とじっくり向き合ってみよう」

 こうして出来上がった作品は、人が徐々に衰えながら死に向かう姿をありのままに、言葉を変えればあからさまに描いている。例えば父の壮さんが訪問入浴介護サービスを受ける場面。訪問スタッフが3人がかりで体を抱えベッドから浴槽へと運ぶ。弱った体を傷つけないよう声をかけながら全身をくまなく洗う。介護の仕事のありがたさと苦労が身に沁みるが、このシーンの映像にはドキッとさせるものがある。

 

 私はNHK社会部の記者だった30年近く前、導入が議論されていた介護保険の取材を担当し、全国各地の老人病院や介護施設を100か所ほど回った。了承の得られた病院に泊まりこんでロケをし、自宅で介護を受けている方を撮影取材したこともある。だが入浴中の姿を撮るのは同意を得るのが難しいし、得たとしても気をつかう。だって、入浴シーンを撮影して公開するなんて、温泉紀行や作り話でもない限り普通はNGではないか。映画では局部もお尻の穴も映りこんでいる。監督は「息子であることに甘えさせてもらい観察記録のように父の死を見つめ」たと語っている。その結果、一人の人間が亡くなるまでの過程を余すところなく描き出した。