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プロダクションどん底時代、肺結核に

 その後順調だった石原プロだが、1970年、裕次郎が35歳のとき巨額の費用を投じて製作・公開した映画『ある兵士の賭け』が失敗。ハリウッドの俳優を起用したのが裏目に出た。裕次郎目当てのファンの足が遠のいてしまったのである。これで石原プロは、8億円という気が遠くなるような負債を背負い、経営的に苦境に立たされてしまう。追い打ちをかけるように、ここでも彼を病が襲う。肺結核と診断されたのだ。

 8か月の長期療養を余儀なくされ、まさに公私にわたる窮地。しかし、そんなピンチが、ある俳優と裕次郎をつなぐこととなる。のちに石原プロの2代目を継ぐ、渡哲也である。

 渡は、心から尊敬していた石原裕次郎の苦難を知り、「これを役立ててほしい」と全財産180万円(当時のサラリーマン年収4年分)を差し出した。裕次郎が、さすがに受け取れず返したところ、「じゃあ僕を石原プロに入れてください」と申し出て、入社に至ったというからすごい。

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 どん底での彼の入社は、精神的にも、経営的にも、かけがえのない支えとなる。単なる上司と部下ではなく、運命共同体として、石原裕次郎と共に生きていくことになるのは、周知の通りだ。大動脈瘤で裕次郎が生死をさまよった際、

「もし、最悪の事態になったら、私も連れていってもらいたい。石原に殉じたい気持ちです」

 と語っている。

 1971年、裕次郎は肺結核が完治。ちょうど、時代は映画からテレビへと移行していた。裕次郎はついに1972年に「太陽にほえろ!」でドラマ進出するのである。

「太陽にほえろ!七曲署ヒストリー1972-1987」(販売元:バップ)

 そして1979年には、派手なカーアクションで視聴者の度肝を抜いた伝説のドラマ「西部警察」がスタートするのだが、その直前の1978年、裕次郎は舌がんを患ってしまう。

 本人には告知されなかったが、その痛みようは、見ているだけで気が狂いそうだったとのちにまき子夫人が語るほど、壮絶なものだった。それでも、舌がんの治療をしながらドラマ撮影は続いた。「太陽にほえろ!」では、セリフを極端に減らして出演している回も見られるが、視聴者にその闘病がまったくわからないほど。

「西部警察」の開始は1979年10月なので、舌がんの痛みをまだ引きずっていたはずだが、彼は撮影現場に行き、持ち前の気力と抜群の運動神経でアクションに挑戦。ドラマのオープニング、オープンカーの運転席に飛び乗るシーンでは一発OKを出しているというからすごい。