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「太陽にほえろ!」「大都会」「西部警察」で高評価を得た石原プロは空前のブームを起こし、負債を完済。さらに約30億円に上る資産を築き、再建に成功した。

 しかし安心する間もなく、1981年、46歳で、裕次郎は解離性大動脈瘤で倒れてしまう。これは約6時間半の手術を乗り切り奇跡の生還を遂げたのは冒頭に記した通りだ。 

 しかし、ドラマに復帰後も、その裏では、首、腰の痛み、発熱が続き、右耳が難聴に悩まされ続けていた。それでも彼は入院中の日本中の応援を忘れず、「西部警察」日本縦断ロケを敢行。

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 そして、奇跡の生還からわずか3年後の1984年3月、検診で肝臓がんが発覚する。

本人に告知するか、しないか

 肝臓がんも、石原裕次郎本人に告知されていない。今でこそ本人へのがん告知は、治療法や支援が増え、それを受けるうえで前提となっている。しかし昭和の時代は、「告知しない」が圧倒的に多かった。厚生労働省の全国遺族調査などを見ると、1990年前後の日本のがん告知率は15%ほどにとどまっている。

 裕次郎の場合、真っ先に病名を知らされたのは、石原プロの小林専務、渡哲也、常務の金宇の3名。彼らの考えは「告知しない」であった。

石原裕次郎 ©︎文藝春秋

 小林専務は、

「石原裕次郎がガンと知らされて、“よし、頑張って生きるよ”と言う人ですか? あれもダメ、これもダメと制約されて、“それでも俺、生きていくよ”と言いますか? 言うわけがない」(著:金宇満司『社長、命。』イースト・プレス)

 と強く反対したという。

 小林から、裕次郎ががんであると知らされたまき子夫人も、同じであった。

 ただ一人、告知を考えていたのが、兄の慎太郎である。