1981年6月21日、東京・信濃町の慶応病院前には、報道陣やファンなど大勢の人でごった返していた。

 彼らが見つめるなか、屋上では石原プロモーションの常務、金宇満司が「始まりますよー!」と白いハンカチを振る。数分後、ゆっくりと渡哲也、妻のまき子夫人を伴い、ワイン色のナイトガウンを着た石原裕次郎が登場。病院前は、大きなどよめきと歓声、拍手に包まれた。

1981年6月、慶応病院に入院中の石原裕次郎。右はまき子夫人、左は渡哲也 ©︎共同通信社

 この名場面から遡ること、約2か月、石原裕次郎は「西部警察」のロケ中に、背中と腰に激痛を訴え倒れた。病名は「解離性大動脈瘤」。心臓近くの大動脈の内側が裂けていき、そこから血液があふれ出る。そのまま血管が破裂すれば死に至るという逼迫した状態であった。

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 手術の成功率は3~5%。まさに生死をかけ、実に6時間33分の大手術を乗り切り、裕次郎は奇跡の生還を果たした。この屋上の異例の撮影会は、入院76日目、彼にとって久々に許された散歩だった。その貴重な時間をマスコミ公開に使うとは、まさに規格外の発想である。(全3回の1回目/#2に続く

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手術成功、熱狂のワイドショー

 大きな歓声を受け止めるように、集まった多くのマスコミ、ファンにゆっくり大きく両手を振り、Vサインを掲げる。その様子はヘリコプターによってとらえられ、ワイドショーがこぞって放送した。

 当時はSNSこそまだなかったが、テレビ東京以外は、午前と午後に生放送のワイドショーがあり、情報発信していた。石原裕次郎の世紀の生還も、民放各局がリアルタイムで映像を流し、日本中が「おかえり! 裕ちゃん」と熱狂したのである。

 裕次郎が入院をしたのは4月7日。当時、裕次郎率いる石原軍団は、熱い正義感と不屈の精神力を持つ男たちの集団として、絶大なる人気があった。

 そこで、石原プロモーションは、世間への影響力、裕次郎の絶対安静の症状に鑑み、入院の時に仮名を使うなどし、隠していた。

 しかし、マスコミが嗅ぎつけるのに時間はかからず、4月29日に記者会見を行うことになった。これには100人近くの報道陣が集まり、石原プロの小林正彦専務だけでなく、主治医の井上正心臓外科教授も出席。病状と手術についてマスコミに説明している。